Fate Grand Order
いつかの子ども
真名バレ有/藤丸立香×新宿のアサシン
人理継続保障機関フィニス・カルデアの無機質な長い廊下を、藤丸立香はひたすらに走っていた。
廊下は走るな、というたしなめがすれ違ったサーヴァントから飛んでくる。口だけで謝って、駆ける速度はゆるめない。ようやく目的地が見えてきた。はあ、と息切れとはまた別の息を吐いて、藤丸はその部屋へと飛び込んでいく。
「ごめんッ、新シンさん!!」
入るや否や、謝罪を叫ぶ。中を見渡すと、やはり新シンさん――サーヴァント、新宿のアサシンはそこにいた。
彼は置かれたイスに腰かけ、酒も傾けず本も開かず、ただこちらを見つめている。ぜえぜえと荒く息をつく藤丸を上から下まで眺めて、にっと笑った。おもむろに立ち上がる。
「お帰り、マスター。何を謝るんだ?」
「……えっ? いや、だって……オレ、遅れ……。」
「そうだな。わかってたんだろう? 『なのにそうしたんなら』、謝る必要はないさ。そうじゃないかい?」
相変わらず、彼は笑みを崩さなかった。しかし、藤丸はさあっと自身の血の気が引く音を聞いた気がした。
あわあわと口を動かす。何か言う前に、彼はバスルームを指さした。
「風呂は用意してあるよお。就寝時刻まであと三十分ってトコだ、身体を濯ぐくらいはできるさ。さあて、忙しいマスター殿は明日も明後日も訓練ときた。今日は早めに休んだほうがいいんじゃないかねえ……そんじゃ、俺は失礼するよ。」
それだけ言うと、長い黒髪をひらひら舞わせて、彼は部屋から出ていこうとする。藤丸は動転した。何も言えないまま、ばっと新宿のアサシンの籠手を掴む。ぐいと引かれた彼は体勢を崩すこともなく、ただぴたりと止まった。どうしたマスターと笑ってくる。どうしたじゃない、と言いそうになって、藤丸は少しだけ唇を噛んだ。
「し、新シンさん……。その……!」
「…………。」
「その、ええっと、……お風呂! 入ろう、一緒に!」
ほとんど苦しまぎれに言う。このまま彼が去るのを眺めていたらいけないと思ったから、ただそれだけの理由で言ったのだが、おそるおそる顔を上げると、新宿のアサシンは少し考えるような素振りを見せていた。ややあって、背中流せってかい、と微笑まれる。違うのだが、もうそれでいい。コクコクうなずいた。
彼は承ったとばかりに瞬き、丁重に湯船へと案内しようとする。藤丸は駆け足でベッドサイドへ向かい、あるものを手に取ってから、彼の誘導に従って進んだ。
バスルーム手前の脱衣室は、二人も入ると少し狭い。新宿のアサシンにぶつからないよう、隅で着替えはじめた。新宿のアサシンは身体を洗う用のタオルを手に黙って立っている。思わず脱がないのとたずねてしまった。
「ん? 脱がないだろ? 浸かるのはあんただけだ。」
「や……うーん、でも、オレとしては脱いでほしいというか。」
「んん……?」
怪訝な顔をする。そりゃそうだろう。しかし困惑したのは数瞬だけで、主君が言うなら、とばかりに彼は霊衣を解いた。肌を覆う見事な刺青がまぶしい。上半身から下半身まで、えっそんなところまで入ってるの!? すごいな新シンさん!! まじまじ見てしまう。彼はそんな藤丸を同じように見ていた。
「マスター、風呂。」
「あっ。うん、入るね……。よっと。」
「それ持って入んの? よく知らねえけど、そーゆーのって水に浸けたら使えなくなるのでは? と思うんだが。」
「あ、オレの防水だから。」
藤丸が手に取ったもの――スマートフォンを見て、新宿のアサシンは眉を下げた。確かに普通の機械ならドボンで一発お亡くなりになるが、オレのスマホは大丈夫です。過去何回もやってるし。無駄な自信を胸に笑うと、ああそう、とばかりに彼は肩をすくめた。
バスルームのドアを開ける。お風呂のふたを取ると蒸気が立ちのぼった。しっかり湯が張られている。藤丸がとことこ中まで入ると、新宿のアサシンは手早くイスへ座るよう促した。
先に頭を洗うようだ。目え閉じててな、と言われて、髪が優しく濡らされる。丁度いい加減で頭のてっぺんから耳の後ろまでこすられて、かゆいとこある、とたずねられた。特にないので首を振る。むしろマッサージされてるみたいでとても気持ちいい。手慣れた動きで流されて、次は身体を洗うみたいだった。
背中や腕までは有難く任せたが、下半身に差しかかりそうになって、流石にその手を取る。新シンさん、とその顔を仰ぎ見ると、彼はどこか嬉しそうにしていた。
「なーに、マスター。」
「いや……そこはその、駄目なのでは。」
「何が駄目なのか、わっかんねえなあ。」
「もー、新シンさん、オレのことからかってるだろ! ごめんってば!」
頬を染めて詫びる。ついに彼は笑い声を上げて、タオルを渡してくれた。いそいそ股間を泡立てる。彼はまだ笑ったままだ。
「そんなにおかしいかな……。」
「いーや、おかしくはないが。強いて言うなら新鮮でな? ごめんよ、マスター。気を悪くさせたかい。」
「オレが悪かったんだし、いいんだけどさあ。あ、新シンさんは身体洗う?」
「俺はいいよお。それよかマスター、早く浸かっちまわねえと、寝るのが遅くなる。」
会話を交わしながら、足を全て洗い終わる。すぐに新宿のアサシンが湯で流してくれた。汗や汚れがすっかり落ち、とてもさっぱりした。いざ湯船へ、というところへ来て、藤丸はスマホを手に新宿のアサシンを呼ぶ。
「新シンさんも。」
「……へ?」
彼は残った泡を、滑らないよう流しているところで、浸かる気など毛頭ないように見えた。藤丸が続けて手招くと、首を傾げてみせる。
「俺も入んの?」
「入るんだよ。脱いだでしょ。」
「脱いだけど。いやでも、マスター入ってるし。」
「いいから。」
なおも、湯が溢れるよお、とぐちぐち言う彼の手を掴んで引き寄せた。彼はまだ納得のいっていなさそうな顔のまま、バスタブへ足を沈めてくれる。はい沈んで、と言うと、湯がざばざば流れるのをもったいなさそうに見つめながら、すっかり浸かってくれた。
藤丸がバスタブの端に背中を当てて、その両足の間に新宿のアサシンを座らせる。彼の背中に刻まれた厳めしい義の一文字と、美しい装飾を覆い隠すように、つややかな黒髪が水面をたゆたった。
藤丸はそれを視界におさめながら、新宿のアサシンに見えるよう、後ろから前へ手を伸ばし、スマホの電源を点ける。
久しぶりに触る愛機は、変わらずに起動し、様々なアプリを浮かび上がらせた――が、アンテナはひとつも立たない。電波が通っていないからだ。それは構わない。藤丸はぽちぽちと操作し、画像を詰めたアルバムのアプリを立ち上げた。
「……はい。これ、約束の、オレの子どもの頃の写真。」
「おお……。へええ、マスター小さいなあ! 三歳ぐらい?」
「うん、それぐらい。触っていいよ?」
持ってもいいよ、とスマホを揺らすと、彼は下から大事そうに抱えた。ここで操作するから、と教えながら、藤丸は新宿のアサシンにばれないように、ふっと息を吐く。
些細な約束だった。数週間前に、サーヴァントたちと一緒にいるとき、子ども時代の話になったのだ。各サーヴァントが思い思いに幼少時の姿を語る席で――もちろん語れないサーヴァントもいるが――マスターの小さい頃も可愛かった、と誰かが言った。
「へえ、マスターの小さい頃? 写真とかあるのかい。」
丁度近くにいた新宿のアサシンが、面白そうにたずねてきて、藤丸はそれにうなずく。発端のサーヴァントにも、ずいぶん前にスマホを見せて、色々言われたことを思い出した。
「うん、持ってきてるから。新シンさんも見る?」
「呵々、そいつは是非拝見したい。またいつか見せてくれよ。」
「いつかじゃなくても……オレの部屋にあるから、新シンさんが空いた時に来てくれたら。」
「そうかい? 俺はともかく、あんたはいつも忙しそうだからな。あんたが空いてる時がいいだろ。いつがいいかねえ……。」
そんなこんなを経て、日取りを決めたのに、結局訓練が長引いて遅れてしまった。本当なら長引くはずはなかったのに、つい素材を深追いして、珍しいエネミーを見かけて飛びついたりして、そのせいで危ない目にも遭ったりして、駄目なマスターだ。ちょっと落ち込んでいるうちに、新宿のアサシンはぴこぴこ操作し、わはは、と笑った。画面には、小さな藤丸が餅へかぶりつき、びろびろと伸ばしている写真が映っている。
「かっわいいなあ、マスター。これは何の写真?」
「それね。毎年十二月の終わりにね、親戚の家で餅つきするんだよ。皆集まってね、父さんとか伯父さんとかがついてくれた餅を、オレはこう、出来上がったのからバクバクと。」
「食べてたのか! ははは、まあこんなに小さきゃ食べるのが仕事だわなあ。」
彼は楽しそうに、餅を丸めては食べる藤丸の写真を次々と見ていく。もう少し大きくなったらちゃんとついてるからね、とフォローを入れながら、彼の機嫌が直りはじめたのを感じて、藤丸はほっとした。
新宿のアサシンは、万が一取り落としても大丈夫なようにか、膝を立てて小さくなり、移り変わる写真の一枚一枚を興味深そうに見つめている。そんなに面白いのかな、と内心思ったが、やっと約束を果たせたのだから、しばらく好きに見てもらおうと決めて、きれいな髪や背中を見るともなく見た。
やがて、ぴ、ぴ、と断続的に続いていた操作音が、ふいに止む。
不思議に思って画面を見ると、そこにはべそをかく藤丸少年が映っていた。
「あ。」
「マスター、これ、何で泣いてんの。」
顔を真っ赤にして、鼻水も垂らして、撮影者の足にすがりついている。かなり情けないワンショットだ。恥ずかしい。一気に頬が熱くなったが、新宿のアサシンが振り返ってこないのをいいことに、努めて冷静に説明した。
「ええとねえ。オレ、小さい頃はかなり変わっててさ。知らないところに来たら絶対探検しちゃうんだよ。で、好きなように歩き回るのはいいんだけど、必ず迷子になってさ……。携帯なんて持たされてなかったから、もう泣き喚いて見つけてもらうしかなくて。泣いてたら必ず、母さんか、誰かが迎えに来てくれてさあ……。だから、それ。その写真です。」
自分の口で説明すると、かなり馬鹿なことをやってる気がしてきて、余計に恥ずかしくなった。小さい頃のあなたは好奇心の塊みたいだったって親からよく言われたものだ。新宿のアサシンが呆れていないか不安になり、横からそっと顔をうかがう。と、彼は想像よりもずっと神妙な表情をしていた。
何か、べつの世界のものを見るような、遠いまなざしだ。どうしてそんな目でこの写真を見るんだろう、と思った。なぜだか怖いような、不安なような気持ちになり、明るい声を出すようにして言う。
「オレ、新シンさんが小さい時の話も聞きたいな。」
「……へえ? 本に書いてるだろ?」
「書いてないこともあるでしょ。そういうのが聞いてみたい。……駄目?」
「ははは。全くあんたには敵わんなあ! そうさね、なら……まあ、つまらない話だが。」
彼はゆるく頭を振って、藤丸の視線から隠れるように顔をそらした。スマホを両手でしっかりと抱えてから、ぽつぽつと語りだす。
「俺の拾ってもらった家は――、ああ、俺は孤児だったから、ガキの頃に拾われたんだが、そこはその街じゃかなりの資産家でね。商人だったが、裕福な家だった。毎月のように新しい使用人が増えて、役に立たない奴はいなくなった。主、前の主な、その方がけっこうな実力主義で、実力さえありゃ身元の知れん浮浪児でも番頭を任せちまうようなお人だったからさあ。ま、そのおかげで俺は、まだ小せえ時分から番頭になり、おそばに仕えることができたわけだが。」
「うん……。それは、書いてある本もあったかも。」
「お、マスターは流石、読んでくれてたかい。嬉しいねえ。……だがこれは書いてなかったろ。毎年桃の花が咲く季節にさ、屋敷の者を皆連れて、花見に行ってたってのは?」
新宿のアサシンが、歌うように告げてくる。藤丸はうなずいて、うなずくだけでは見えないかと思い、知らなかった、と口にした。そりゃよかった、と彼は笑い、続けてくる。
「珍しいことなんだ。なんせ人数が多いし、店を空けることになっちまうから……。でも年に一度だからってんで、習慣になってた。――その日は、まだ桃の花が蕾の頃で、前の主と二人、屋敷へ帰る途中だった。」
彼の語りが、いよいよ深いところへ向かっていくのを感じ、藤丸は黙ったまま待つ。何かを噛みしめるような沈黙があって、また声が響いた。
「『花見の下見へ行こう』と。そう言われてね。俺はちょっと困った。もうあとは店に帰るだけだったが、春先とはいえ夜は冷える、羽織物をご用意してはいてもお身体を冷やされたら事だ。暗にそう言ったんだが聞いちゃくれなくてさあ。仕方ねえから向かって、やっぱり桃はまだ蕾で、西日が差していて、ああ早く帰んなくちゃと、俺はそればっかり思ってた……。そこで言われたんだ。『燕青、ひとつ舞ってみせよ』。」
――燕青。それは、新宿のアサシンの真名だ。あの恐るべき狂乱の都と化した新宿で、伝承として語り継がれてきたドッペルゲンガーと混ざりあい、果たして彼は産まれた。本来は物語の中にしか存在しない、架空の存在であるはずの彼は、今こうして意思を持ち、背を丸めて藤丸の目の前にいる。
「舞えって言われても。何も用意なんざしてないんだ。格好だって、普段のそれでさ。しかも俺は、帰る算段ばかり立ててたんで、あんまり唐突で――。けど、旦那様がそう仰るなら、舞わないわけにいかない。幸い、俺は踊りには自信があってね、使用人連中の中じゃ誰より上手かったし、ひとかどのモンだと自負してた。花見の余興にもよく踊ってたしな。なのに、いざ主の前で、たったひとり、一挙一動見られながら踊ると思うと、馬鹿みてえに緊張したのさ。」
新宿のアサシンが、そっと両の手を、手の内のスマホごと胸に抱く。思い出しているのか、わずかにその腕が震えていることに気づいた。
「まさか。万が一、歩みを誤ったら。腕や指先の角度が、腰の反りが、動きが逸れたら。……怖かったよ。そんな姿を主の前に曝して、繕うこともできなかったら、悔しい、情けないなんてモンじゃない。でもそれと同じくらい、……同じくらいに。主が、俺だけを見ていてくれたんだ。その一瞬だけは。」
声に、熱がこもる。藤丸は浮かされたように聞き惚れていた。彼の思いの壮絶さや、その時の彼の心模様、張りつめた空気、伝う汗、そして湧き起こるような喜びが、こちらへまで伝わるようだった。
新宿のアサシンが、静かに口を閉ざす。水面を眺めているように見える。けれども、違うのだろう。藤丸は、心臓がぎゅっと握りつぶされたように痛くなるのを感じた。丸められた彼の小さな、実は自分よりも小さい背を、これほどまでに強く意識したのは、それがはじめてだった。
次に彼が発した言葉は、それまでの感情は取り払われて、ただ底抜けに明るいだけの、軽快な声音だった。
「とまあ! そういうことが、あったんだが。なんて、やっぱりつまらないだろ? 水滸伝はなあ、ほらやっぱ、斬った張ったやらかした! が面白い話でな。あんたもそう思うだろ。」
「ううん。そんなことない。話してくれてありがと、燕青。」
そっと彼の背を抱く。ぎくりと身体が強張ったのがわかった。突然名前を呼んだからかもしれない。渾名の気安さよりも、ずっと重い。彼のなめらかな背に、音もなく雫が伝って、ほのかに赤く染まりはじめた肌に頬をつけると、生きている温かさが感じられた。
新宿のアサシン――燕青は、静かになってしまって、戸惑っているのかうつむいたままだ。藤丸は手を伸ばして、彼の肩を抱いた。
「ちゃんと踊れたんだ。オレ、すごいと思うよ。」
「……だろお? 歌も踊りも詩も、何でも出来ちまうからなあ、俺は。おまけに顔もいい。」
「うん。本当に。」
「……、……。マスター。あんた……さあ。」
燕青が、もじついている。心底困ったように。小さな声で、ぼそぼそ言ってくるのだが、その続きはなかった。藤丸の手から逃げようと、少しだけ体勢を前へやるのだが、両手が塞がっているせいで逃げ切れないらしい。諦めて腰を下ろしてきた。
「燕青、なんか、たまに、褒められなれてない感じするんだけど。なんで?」
「ええー……。んなことねえと思うけど……。あーでもアレだな、主にはあんま、褒められなかったかな。」
「そうなの? じゃあ、もしかして踊ったあとも?」
「ああ、そりゃもちろん。確か踊り終わったら、帰るかっつわれて、ああじゃあこちらを、って羽織物渡したよーな。」
「マジで。なんでだ……。じゃあオレが褒めるね。」
「いいよお!! 何十年越しなんだよ。そういうのっ……マスター、手え放して。頼むから。マスター!」
燕青が身をよじる。嫌そうな声だ、あまり聞いたことがない。放してあげたほうがいいのかもしれない。けれども、彼のことをいっぱい褒めてやりたいのと同じくらい、しばらく抱いていてやりたかった。藤丸自身よりもずっと大人で、色んな経験をしてきて、無頼漢としてそこに立つ燕青のことを、今だけは一人の子どもみたいに、大切に扱いたかった。
大切に。それだけは自分にも出来るだろう。自分には他に何もない。平凡で、平均的で、ごくふつうの子どもでしかない自分のことを、主人だと仰いでくれる皆に応えたい。大切にされたいと思っている相手ならなおさらそうだ。
しばらく、湯船の中で、温もった湯に浸されながら、藤丸と燕青は寄り添っていた。いつの間にか、燕青は逃げるのをやめて、藤丸に背中を預けている。動かなくなった首すじに、たらたらと汗が伝い落ちていた。
もしかして、いい加減暑いのかもしれない。そう思って、ばっと手を放した。ごめん、と口に出すと、燕青が息を吐いたのが聞こえる。
「いいや。……嬉しいよ。褒めてもらえんのは。たとえ何十年越しでも…………、やっぱり嬉しいよ。」
燕青が、ちらりと視線を寄越してきた。逆上せているのか、照れているのかわからない頬が、すっかり赤い。
藤丸はくしゃりと笑った。もっと燕青を、燕青自身に伝わるように、大切に出来たらいいのに、と思った。
「オレ、燕青のこと好きだよ。」
だからなのか。その言葉は、あっけなく発された。言ってから、あれと思った。それとそれは、同じ意味なんだろうか。
「はは。ありがとうな。俺もマスターのことが好きだよお。……そら、そろそろ上がろう。いい加減、あんたの顔が相当赤い。」
さらりと返されて、ああうん、とうなずき、立ち上がろうとしてふらついた。燕青がすぐに腕と背を支えてくれる。逆上せているのはこちらの方だったらしい。
そのまま、燕青に介助されながらどうにか体を拭き、寝間着に着替えて、自室へと戻ってきた。彼は霊基をいじったらしく、すでに髪も肌も乾いて、いつも通りになっている。
ベッドへ身を預けた。燕青はそんな藤丸を見下ろして、持ってきた水をベッドサイドに置く。
ぎし、とスプリングが軋んだ。燕青が膝を折り、顔を近づけて、ぱたぱたと煽いでくれる。すごい、至れり尽くせりだ。元はといえばオレが悪かったのに。
「駄目なマスターで、ごめんね。」
「……駄目なんかじゃないさ。」
「そうかな……。燕青、また聞かせてよ。燕青が、イヤじゃなかったら。」
「……。考えとくよ。」
ああこれ、もう話してくれないやつだ。藤丸は頭を抱えそうになった。それを読み取ったのか、燕青は違う違う、と笑って、ベッドに肘を付き、しょうがない人だ、と言わんばかりの顔をする。
「あんたほど、話すネタがないんだよ。使用人だぞ? 他の奴と仲良しこよしやってたわけでもない。毎日仕事か、武芸の訓練か、夜遊びはあんたには話せんし、思い出そうにも昔の話だからさ。だからまあ、何か、見つかったらな。そん時に。」
「うん……。お願い。ありがとう、燕青。」
「はいはい。あんたはもう、寝ろ寝ろ。」
よろつきながら起きて水を飲み、また倒れ込むと、同時にフッと電気が消される。まだ温かいままの体に、毛布と布団がかけられた。一気に眠たくなる。闇の中に、燕青の気配があった。
今日は燕青と、ずいぶん話せた気がする。今度は約束をちゃんと守ろう。次は、どんな話を聞かせてくれるだろう。色んなことを考えているうちに、意識が遠くなって、藤丸は眠った。部屋に整った寝息が聞こえるようになって、燕青は頭をかく。彼は内心、自分を罵っていた。
「は~……。気い付けねえと……。どうも調子狂うなあ。……飲むか。」
そのまま、静かにその場を立ち去る。部屋から退出する間際に、ちらりと主を確認した。すっかり寝入っている。
よく休めるといいが。少しだけ明日の予定を憂慮して、燕青は頭を振った。食堂へと歩いていく。
進みながら、ひとりごとのようにぽそりと、マスターかわいかったな、と呟いた。