メギド72
はみがき
バル+ウェパ+モラ(+ブネ)
淡くやわらかな朝の陽が、長いクロスの敷かれたテーブルへ差し込む。ウェパルはひとり、そこへ腰かけて、宿屋の店主からサービスで出されたミルクのカップを、手持ち無沙汰にかきまぜていた。
木造りの古いカウンターには、マスターとして宿の主人が立ち、何人かの従業員とともに、泊まり客へ向けた朝食の仕込みをつづけている。調理の音だけが室内に響いていた。そこへ、二階から足音が降りてきて、すみの窓辺にいたウェパルのそばへとやってくる。
「おはよう、ウェパル。モラクスを見なかったかい。」
「……知らないけど。」
「……。」
顔を上げたウェパルの視線の先で、バルバトスの金髪が陽を透かして光った。
自身を美しいと言ってはばからない彼は、どんなに朝早くでも身なりを整えてから起きてくる。彼は青い瞳でウェパルの顔を数瞬見つめて、ふっと笑った。視線をそらし、カウンターの店主に声をかけ、水差しいっぱいに水がほしいと願い出る。それからウェパルのかたわらへ歩みより、テーブルに手をついた。
「実は、少し困っててさ。ウェパルからも言ってほしいんだが。」
「……何?」
「モラクスがね、歯を磨かないんだよ。」
「は?」
「そう、歯。」
大真面目にうなずくので、ウェパルは露骨に顔をしかめた。なんなの、とたずねているのか非難しているのか絶妙なトーンで聞きかえす。バルバトスは眉を寄せた。
「そういう習慣がなかったみたいでさ。とりあえず、覚えてもらうために、昨日やらせてみたんだけど……それから避けられてるんだよ俺。」
「なにそれ。バカね。」
「虫歯になったら、なおらないし、歯も抜けるし、良いことないのにな。……って、ウェパルも言ってやってくれ。」
そんなことを頼むな、とあからさまに言いたげなウェパルだったが、水お待ち、と呼ばれたバルバトスがカウンターへ向かい、そのまま水差しとグラスを手に二階へ上がっていくのを見届けたあと、ふっと息をついた。モラクス、と声に出す。テーブルクロスが膨らんで揺れた。
「……アイツ、行った?」
「行ったわ。」
それだけ交わすと、ふいにクロスがめくれて、中からモラクスが出てきた。礼を言おうと開けた口を制するように、ウェパルがじっとりとした目でにらむ。
「あんたね、歯ぐらい磨いたらどう。」
「……だ、だってさ! アイツ、なんかスッゲーマズい粉、かけてくんだよ!」
「歯磨き粉でしょ。食べ物じゃないんだから、不味いにきまってる。」
呆れたように指摘され、モラクスはぐっと歯を噛みしめた。それを見ていたウェパルは、ミルクを混ぜる手を止めて、言っておくけど、とモラクスへ向きなおる。その唇は不敵に吊り上がっていた。
「虫歯、痛いわよ。細かい針で歯茎の奥をずっと刺すみたいな痛みだって、聞いたことある。あんた、がまんできないわよ。絶対。」
「そっ、そ、そんときゃあ、抜けばいいじゃん!」
「ふうん。それで歯がなくなったら、あんたの好きな肉もお預けね。一生。」
一生、という言葉の重みに、モラクスが息をのむ。さあっと青ざめる彼に、ウェパルはわざとらしく酷薄に笑った。そしてミルクをかたむける。彼女の上唇の上に、薄く白いひげがついた。
モラクスが何も言えないまま、暗い表情になっていると、バルバトスがまた降りてくる。おはよう、モラクス、と声をかけてきた。返事はない。ウェパルは首をかしげた。
「アイツ、まだ寝てるの。」
「うーん。というより、昨日飲み過ぎたみたいでね。朝に発つのは難しいんじゃないかな。」
「はあ? あんた、起こしなさいよ。」
「無茶言うなよ。ただでさえ寝起きで、その上二日酔いだぞ。苛々しててやりにくいったらない。」
バルバトスは肩をすくめ、それからウェパル、と笑って指を立てた。すっと自身の上唇の上を撫でて、ひげがついてるよ、と告げる。ウェパルがぱっと口を覆って、拭いているうちに、彼はイスへ腰かけた。
モラクスにも座るよう誘導する。三人で朝方のテーブルを囲み、彼らは顔を見合わせた。
「どうするつもり? このまま寝かせておく気?」
「それなんだが、今日はたぶん昼ぐらいから雨だろう。この時期なら長く降らないだろうし、明日の朝に発つのでもいいんじゃないかって思ってさ。」
「そんな調子で、本当に見つかるわけ。」
「焦ってもしかたない。それに、聞き込みも大事さ。そうだろ?」
ぱちっとウィンクしてみせて、バルバトスはモラクスにも意見を聞いた。モラクスはぼそぼそと、どっちでもいい、というようなことを言う。再度ウェパルとバルバトスが視線を合わせた。ついに、わかった、とウェパルが折れる。
話し合いが一段落した気配を感じ、バルバトスが厨房に朝食を三名分オーダーする。運ばれてきた食事をとりながら、彼らは小さな声で会話をつづけた。
「昼までに買い出しをすませたいんだ。ウェパル、モラクス、一緒に来てくれるかい。」
「なんで、私まで。」
「キミだって必要なものあるだろ、自分で選んだ方がいいよ。」
「なあそれ、俺も行かなきゃなんねぇの?」
「モラクスは力が強いからな。重たいものを持ってくれると助かる。」
「って、荷物持ちかよっ! やだよっ!」
「そう言うなって。俺じゃ持てる量が限られるし、モラクスがいてくれるとスムーズなんだ。頼むよ。」
かちゃかちゃと食器が鳴った。挽肉の腸詰へかぶりついていたモラクスは、バルバトスの困ったような笑顔をじろりと見つめ、少し考えてから、しょうがねえなぁ、と言って、ぽたぽた落ちる肉汁をもったいなさそうに目で追う。モラクスが皿を舐めださないか不安になったらしいバルバトスが、パンをちぎって浸せばいいとアドバイスするのを、ウェパルは無表情に視界へおさめていた。
食事を終えて、三人は市場へと繰り出した。道中で何かと使うダガーや油、ロープ、布などを補充し、適宜新しいものへ取り替える。なるべく安く、質のいいものを探して、賑やかな露店をさまよった。
ウェパルは傷んできたらしいサスペンダーと、靴の替えがほしいと言う。モラクスは糧食や狩りの道具ばかり気にする。こまごまとしたものを買い、要らないものを売って、路銀の足しにした。モラクスが不要なものを買いそうになるたび、ウェパルが「要らない」と一刀両断する。あまりにもためらいのないそのやりとりに笑いながら、自分じゃこうはいかないな、とバルバトスは二人を見下ろした。
途中で、偶然身だしなみ用品を売る店に差しかかって、モラクス、とバルバトスが手招きする。そこには歯磨き粉の袋が並べられていた。
「……なんだよ。」
「ほら。どれがまだマシだい?」
「……うぇー、どれもマズそ……。」
「まだいけそうなやつはないのか?」
香りを嗅ぐだけでよみがえってきたのか、モラクスがべっと舌を出した。バルバトスは苦笑しながら、いくつか嗅がせてやる。そのうちのひとつが、まだしも甘い香り付けで、モラクスが少しだけ顔を近づけたので、それを買うことに決めたようだった。
気づけばすっかり大荷物になって、モラクスは前が見えないほどになっている。それを見たバルバトスが、帰り際に喫茶店へ寄り道をした。甘い飲み物と菓子を二人に奢って、彼は可愛らしい女性の店員とお喋りをしている。ウェパルはそれを心底つまらなさそうに見ていたが、モラクスが何となく神妙な顔をしているのに気付き、どうかした、とたずねた。
「いや、……これ食い終わったら、歯、磨こうと思って。」
「ふうん。虫歯になるのは嫌だった?」
「やだよ! それもやだし……アイツに粉、買われたからさぁ。」
そう言って、モラクスは決心したように、菓子へフォークを突き立てた。
やがて、バルバトスは会話を切り上げる。去りゆく女性に手を振ってから、やっぱりここにもいなさそうだ、とつぶやいた。
探している最中の、ソロモン王のことだ。手がかりは指輪だけ。どんなヴィータかもわからない。男か女か、若いのか、老いているのか。小まめに情報収集をしているらしいが、ウェパルから見ると、そのうちの八割くらいは無駄な会話なので、あっそ、と返すほかない。手厳しい返答に、バルバトスが気を悪くしたようすはなかった。
遠くから雷鳴が聞こえてくる。もうすぐ降るな、という声に、そうね、とウェパルがうなずいた。
ほどなくして席を立つ。宿屋へ戻ったとたん、雨が屋根を打ちだした。一気に土砂降りになった空模様を眺めたあと、バルバトスはモラクスを労い、ウェパルに荷物の準備を手伝ってほしいと頼む。暇になることがわかりきっているウェパルは、しょうがないわね、と言いつつも、午後の時間を整理に費やしてくれた。
夜、宿での夕食を終えて、モラクスの部屋へバルバトスが来る。手には歯を磨く用の布と、午前に買った粉があった。モラクスは嫌な顔をしたが、今度は逃げずに、布へ粉をまぶし、自分で磨こうとする。それを褒めてやりながら、バルバトスは吟遊詩人らしからぬ子どもじみた詩で『はみがきのうた』を歌った。
うえのは、おくば、まえば、まえがわうしろがわ。リズムよく歌うのに合わせて、たまにえづきながら、モラクスはきちんと手を動かした。歌の最後に、くちをあけて、と詩が入るので、モラクスも開ける。バルバトスは磨けているかのチェックをすませて、水を渡してやった。口をゆすぎ終わったモラクスはぐったりとして、うぇー、と何度も舌を出しては肩を落とす。
「えらいぞ、モラクス。」
「やだ、俺、これもうやりたくねー……。」
「はじめは一日一度でいいさ。慣れたら食後は必ず、ね。」
「いやだー……。」
「がんばれ。」
モラクスの小さな肩をぽんぽん叩き、バルバトスは水差しを回収した。こんなんおっさんもやってんの、とモラクスがたずねるので、やってるだろ楊枝で、とバルバトスが手で仕草を真似する。逃れる手段を見失ったらしいモラクスは、よろよろとベッドに倒れ込んだ。バルバトスはそれを見送り、部屋から出ていく。
そのまま一階へ降りていくと、賑やかな室内の一角で、回復したらしいブネと一緒にウェパルが座っていた。バルバトスが同じテーブルへ腰かけると、ブネはおもむろに切り出す。
「オマエ、なんだあのわけわからん歌は……。」
「え、『はみがきのうた』だよ。昼間に作ったんだけど。悪くないだろ?」
「バカかオマエ、ここどこだと思ってんだ。誰がガキ連れ込んでんだって、酔っ払いどもがわめくだろうが。」
「おや、そう。じゃ、鎮めるついでに披露してくるとするか。ちょっと多く使っちゃったからな。」
稼いでこよう、とバルバトスは店主のもとへ交渉に行ってしまう。何なんだハミガキってよ、とブネが独り言つのに、ウェパルはあえて説明しなかった。
彼女は、歌いはじめたバルバトスから視線を逸らして、雲の切れ間から星を見上げる。ブネもつられてそちらを向いた。
まだ痛むらしい頭をかきながら、明日は歩くぞとブネが言う。それを聞いたウェパルは、道が乾いてるといいけど、と買ったばかりの靴をひと撫でして、かすかに笑った。