刀剣乱舞

敗走の夜
和泉守兼定+堀川国広/和泉守が太刀

 敗戦した。
 敵将の首など、一つとして落とせていない。
 重傷者三名、中傷者二名、軽傷者一名。破壊が出なかっただけ良い、みじめな潰走だった。
 命からがら本丸へ逃げ戻った刀剣たちで、手入れの間は即座に埋まる。慌ただしく短刀たちが駆け回りだした本丸において、唯一軽傷で済んだ部隊長は、戦支度のまま、何が起こったか説明を求める主の手招きに応じて、屋敷の奥へ消えていった。
 それは、新たに任命された戦地での、偵察および討伐を目的とした出陣であった。部隊長は和泉守兼定。本丸に顕現して日は浅いが、すでに中堅と呼べるほどの腕を振るう太刀である。流石は幕末を背負って戦った、名高い主君を持つ名刀だ、と主にも称賛されるほどの努力家で、今回の抜擢も、見込みを受けての任命に違いなかった。
 共に出る者の中に太刀はいなかった。普段主力として投入されている隊士は、遠地へと駆り出されていたため、戦力としては心もとない部隊ではある。そのため、あくまで敵兵の布陣や規模、侵攻状態の視察を重要視し、傷を負えば即座に撤退せよ、との指示が下っていた。
 それが何故、これほど無様な敗北を喫したか。
 手入れの間が重傷者で溢れている現在、どうにか中傷で済んだ堀川国広は、短刀たちによる献身的な手当てを受けながら、恐れと好奇の入り混じる視線を受けて、あははとあいまいに笑った。
「やっぱり、気になるよね。」
「そりゃあな。」
 部屋の中央で、それぞれに指示を出しながら、包帯を揃えたり薬品を手渡していた薬研藤四郎が同意する。
「本丸が始まって以来じゃねえかな。これだけ屋敷が怪我人で溢れるってのは。大将もさぞ仰天したろうが……それは、俺たちだって同じさ。折れなきゃ手入れで済むとはいえ、何があったか。当然気になるね。」
 傷口に赤い消毒液が塗りたくられ、堀川は顔をしかめる。すみません痛かったですか、と早口に詫びた五虎退へ、大丈夫だよと手を振り、困ったような表情を浮かべた。
「そうだね。何があったか。いろいろ、要因はあったんだろうけど。僕の口から語っていいものか。」
「確かに。なら、隊長殿から報告してもらうとしようか。大将と部屋に篭るほどだ、傷は、そう深くないんだろう?」
「……うん、そうだね。傷はね。」
 彼らしくもない含みを持たせた物言いに、薬研は片眉を上げた。ふっと笑み、堀川の肩をとんと叩く。
 そして、何も言わずに首を振り、白衣を翻しながら、別の部屋へと足早に向かっていった。
 応急処置を受けたのちに、炊事や洗濯など、いつも通りに働き出そうとした堀川だったが、すでに本丸中に負傷者の名は知れ渡っており、行く先行く先で大人しくしていろと窘められ、終いには布団へと押し込められてしまう。
 薄暮れ時に帰還し、半刻ほど悶着してから床につき、気がつけば眠りに落ちていた。思っていたよりも体は疲労していたらしく、再び目を覚ましたのは夜中だ。戦場から帰って、高揚から醒めると、存外あちこちが軋みを上げていて、痛いな、と独り言つ。傷口を押さえ立ち上がる。
 ぬばたまのように混じりけのない、暗く重たい夜をかき分け、堀川は着流しのまま廊下へ出た。
 屋敷は静まり返っていた。手入れ部屋の方から、かすかな物音が空気に乗って、こちらへとやってきている。人がいる方から離れ、気配のない闇の奥へ、堀川はふらふらと進む。
 大太刀部屋や、太刀部屋にも、いつもはある灯りが今日はない。起こしてしまうと悪い。殊更ゆっくりと、足音を忍ばせて歩いた。
 本丸の、ほとんど最奥と言っていい所に、執務のための部屋がある。そこから漏れる灯り、衣ずれと墨を擦る音に、堀川はすっと息を詰めた。戸の前に立ち、兼さん、と声をかける。
 返事はない。しかし、物音は止んだ。
「入るね。」
 するりと戸を引き、制止される間を与えずに、後ろ手で閉める。
 果たしてそこにいたのは、長い髪を乱雑に束ね、畳に無造作に散らばせた、和泉守その人だった。
 普段の整えられた身なりには程遠く、新撰組の羽織こそ衣紋掛けにまとめているが、外した装備は部屋のあちこちに散乱し、脱いだ袴は放られたままだ。着物は腰でゆるく留められて、肌着の下の胸板を惜しげもなくさらしている。現れた堀川を見遣る眼差しが、沈んでいて、薄暗く光る青の瞳を、同じ色で堀川は見返した。
「……何か用か。」
「傷はどう、兼さん。」
「ハッ。どうもこうもねえ。かすり傷だ、こんなモン。」
 硯に添えていた手を離し、問題ないとばかりに揺らす。机に積まれた和紙に目をやると、淡々と和泉守は続けた。
「今回の失態は、繰り返すわけにはいかねえからな。得た情報もまとめて、明日には主に渡す。国広、お前、まだ手入れに行けてないんだろう。起きてねえで、さっさと休め。」
 それだけ言うと、和泉守は堀川から顔を背け、休めていた手を動かした。伸びた背中と、語らない横顔を、堀川は見つめる。遅くまで主へ事の次第を報告し、その後すぐここへ来て、墨を用意したのだろう。和泉守から、仄かに鉄錆の匂いがした。
 正座したまま、和泉守の後ろで、堀川は控える。しばらくそれを続けていると、和泉守は墨を擦る手を止め、筆を持ち、すらすらと文字を連ねはじめた。勢いよく走らせてはいるが、強弱のある、つり合いのとれた字だ。
 流れるようにして和紙が黒く染められていく。一枚、二枚、と進み、三枚目が済んだところで、国広よお、と声がかかった。
「休めって、言ったぜ。オレは。」
「うん。でも、兼さんを放っておけないから。」
「放っとけよ。情けねえ、見られたくねえんだ。お前にも。」
「兼さんは情けなくなんかない。」
 和泉守の肩が、小さく震えた。投げやりに続けられていた言葉が止まる。
「今日の戦いは、厳しかった。突然の雨で、敵陣は見えなくなるし、道はぬかるむし、霧は出る。その上、狭い山道を列になって行軍して、まさか横の、急勾配の上から敵が来るとは思わなかったよね。兵装の展開もうまくいかない。兼さんが先陣切って、退路を見出してくれなかったら、もっと被害は大きくなってただろう。」
「だが。霧で視界が悪い中、オレは脇から敵に襲われることを想定してなかった。そのせいで陣の立て直しも遅れた上、隊長のオレが慌てるもんだから、馬もお前らも浮き足立って、まともに動けていなかった。あの時、焦らず二手に分かれて、ヤツらを中央で挟み撃ちにしちまえば、もっと上手く戦えたはずだ。」
 筆を置いて、堀川のほうへ向き直りながら、和泉守は早口に告げた。青い瞳を深く閉ざし、眉間にしわを寄せ、唇を噛みながら、戦況を振り返っていく。ひとつひとつの内省には、至らなかった自己への憤りと、やるせなさが込められていた。
 膝に置かれている和泉守の手が、強く着物を掴み、握りしめて震えている。
 堀川は目を細め、和泉守の告白を、ただじっと聞いていた。
「もっとオレが、戦い方を知っていたら。敵の動きを読めていたら。臨機応変に判断ができたら。怪我なんかさせなかった、お前にも、誰にも。」
 透き通った眼光が、堀川の瞳に注がれる。真摯で強く、気高い眼差しに、堀川はまたたいた。
 そして、ゆるやかに体を起こし、膝立ちのまま、和泉守へと近づいていく。
 自責に染まった表情から目を逸らさず、和泉守の頬を両手で押さえ、しっかりと包んで向き合った。
「兼さん。僕ね、今、すごく泣きたいんだ。」
 和泉守の目が、見開かれる。
「兼さん。隊長としての初陣、僕はずっと楽しみだった。大役を授かって、兼さんが毎日稽古場に通ったり、夜遅くまで兵法書を読み漁ってたの、知ってたから。」
 苦手な馬の手入れも進んでやってたしね。そう、いたずらめいた口調で言いながら、土埃にまみれて常時より艶の失せた、和泉守の長い黒髪へ、指先を絡ませる。
 手触りを慈しむように、撫でてはすくい上げ、堀川はすうっと微笑んだ。
「……兼さんは、もっとできたと思うよ。今日うまくいかなかったのは、どうしてなのか、それも、兼さんはちゃんとわかってるんだから。悔しかったよね、兼さん。僕も悔しい。すごく、悔しい。悔しいよ兼さん。負けたくなんて、なかった。」
 じわ、と、和泉守の目がうるみだす。びくりと大袈裟に跳ね、顔を隠そうと動くのを、堀川は押さえ込んで逃がさなかった。じわじわ雫が広がり、目いっぱいに溜まって、そして、静かに、決壊していく。
 透明な玉が、ほろりと、線をえがいて伝っていく。
 目の周りが赤く色づく。一度溢れたものは、留まることが二度とはできない。ぼろぼろ零れだした涙を眺めて、堀川はすまなそうに眉を下げた。そして、大きく息を吸って、吐いた。
 目を閉じると、和泉守の呼吸や、鼻をすする音ばかりが聞こえて、その体と、今の自分が、無事にこうして在ることを、堀川は感謝した。誰に、というわけでもない。生きているんだな、と思った。
 しばらくそうしていると、和泉守が、所在なさそうに動きだすので、そっと離してやる。
 彼は真っ赤になった顔を拭い、決まり悪そうに目を逸らしながら、ずずっと鼻をすすった。
「同じ手は食わねえ。次は、勝つ。」
「うん。必ず。」
 堀川はそれだけ言うと、身を離した。和泉守も居住まいを正し、背すじを伸ばして、筆を取り直す。
 硯に筆先が浸され、白い和紙に、黒星の墨が引かれていく。和泉守の後ろで、堀川はそれを見つめた。先ほどよりも筆の滑りが良い。
 東の空が白み出した頃には、報告書の束をまとめながら、眠たげに目を擦るふたりの姿があった。

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