黒子のバスケ

不時着の過程
3 終着
黒子×火神/青峰←黒子前提

 しずかな部屋の中に、扉を叩く音と、誰かの怒声が、遠く響いている。
 投げ出されたままのバスケットボールはころりとも動かない。
 扉の外には、十人には満たない程度の男女が、なにやら切羽詰った声音でささやきあっていた。
 うち一人が、携帯を持ち上げ、ぎりりと握り締める。
「くそっ……なんで出ねえんだよ、あんのバカ共は……っ」


 吐く息がずいぶん白い。ひりつく鼻先を、ミトンの手袋で覆って、吐息であたためているうちに、自販機から火神が帰ってきた。
 火神の鼻も赤くなっていて、寒いなと黒子は思うのだが、口にするより早く頬に缶が当てられた。じわ、と熱が押し寄せてくる。両手で受け取ってみると、それはコーヒーだった。微糖、と何かに誇るようにでかでかと書いてある。わかりやすい。微糖、という味は、よくわからないのに。
 口をつけると、豆の香りがぷんとして、舌に味が流れ込んだ。甘くて、苦くて、すっぱい。
 あいまいな味で、でもそれでいい。たぶん、それがいい。
「……なんで、おしるこなんです」
「ああ、あったから」
「おいしいですか」
「マズくはねえよ」
 火神はずずずと缶のおしるこを飲んでいて、それは懐かしい痛みを連れてきた。痛みをごまかすように、黒子は努めて声を弾ませる。緑間くんが、言うには。
「最後は、振って、勢いよく飲み干すのだそうですよ」
「へえ。あいつって変なこだわりあるよな」
「はい。そうすると、缶の底に豆が残らないんでしょうね」
「別に残ってもいいんじゃねえの」
 火神はそんなことを言っておきながら、最後はぶんぶんと振り、一気にあおった。突き出た喉仏がごくんと上下して、ふうと吐いた息は甘いにおいがした。黒子の微糖コーヒーはまだ少し残っていて、飲み終わるまで、ふたりは黙ってそこに立っていた。
 空になった缶ふたつを、火神はこともなげに押しつぶし、少し離れた位置にあるゴミ箱へ放る。すこん、ときれいに入る音がして、6点、と黒子は思った。きっと、火神も思っているのだ。
 けれどもう、口には出さない。
 目あてのバスは、夜闇にまぶしく、人工の光は幸薄そうに見えた。眠たげに立つ男に切符代わりの領収書を差し出して、荷物をバスの腹に押し入れ、乗り込む。
 すでに何人か座っている。
 中ほどの座席にふたりで座り、車内側に火神がつく。反発が強い、お世辞にも座り心地がいいとはいえない席だ。
 置かれていた毛布を、黒子と火神はそれぞれ広げ、膝にかぶせた。ぬるい気温だった。
 すこし、どきどきしていた。固まって下を向いていた黒子の、頭にぽんと手を乗せ、火神は笑った。諦めたような笑みだった。
 人が増えて、時刻が迫って、バスが動きだして、ようやく、黒子は詰めていた息を吐いた。
 横に座っている火神を見ると、目が合った。
 ずっと見ていると、泣き出してしまいそうで、黒子は外に顔をやった。ぽかりとまん丸な月が浮かんでいたが、半ば雲に呑み込まれている。予報では、明日は朝から雨だった。
 きっと、明日の晩は、月が出ないのだろう。
 車内のどこかから、熊のようないびきが聞こえてくる。
 火神は眉を寄せながら、見渡すような柄の悪いことはせず、正面に顔を向けたまま言った。
「寝ろよ」
「火神くんが寝てください。もうこんなに暗い」
 言葉どおり、すでに、車の中は光が落とされていた。旅路は長いから、誰もが眠れるように。
 火神は黙り込み、黒子も膝に手を置いたまま、車に揺られていく。
 高速に乗り、巨大なトンネルが眼前に迫るにいたって、黒子は引き返せないのだと実感した。
 暗闇が、大口を開けて横たわっている。
 バスが、速度をそのままに、トンネルへと入っていく。光の差さないやみの奥へ、一心不乱に進んでゆく。
 そうしてとぷんと音を立てるように、あっけなく消えた。

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