ツバサ

きみはヒーロー
黒鋼×ファイ

 旅のはじまりは、定められた道すじ。
 まっすぐな先にあるものに、恐れることなく手を伸ばす、きれいな人たちを前にして。


 ちかちか光るはこ。
 光るだけでなく、しゃべる。色がくるくる変わる。きらきらしていて、目がはなせなくなる。ファイはそれを青く澄んだ瞳で見つめた。
 こんなはこはセレスにはない。ちいさくてきらきらだ。何に似ているだろうと思いながら、かがんでぼんやり眺めた。
(おとぎ話のたからばこは、きらきらしているって言うけれど、しゃべらないしね。)
 考えながら、指先でその表面にふれてみる。
 ばちっと弾かれた音がして、しびれるものが伝わった。驚いて手を離す。はこの向こうが変わったようすはなかった。
 それから目をそらさずに、少しだけ距離を空ける。はこの中では絵がくるくると動いていた。きらきらと光っている。たからもののように。
 眩い輝きに目を焼かれながら、別の世界にきたんだな、と思った。
 オレをさいごまで「優しい」と言ってくれた、やさしいやさしいただひとりの王さまを、水底に沈めて。
 恐るべき事態を置き去りにして、そこから逃げて、定められた役目をこなしている。
 求められていることは、塔の奥で出会った男がつくり上げた方舟で、少女を護る、それだけ。きれいな人形じみた女の子ひとり。ほかは何にも知らないし、知る必要などないし、知らなくたってファイは平気だ。
 目の前にちょこんと置かれている、このはこの中身だって知らない。ただ美しいだけだと思う。美しい光の粒で満たされている、ひとつの世界。
「なんだそりゃ。」
 盆に器をのせて、厨房から旅の同行者がやってきた。いぶかしげな顔をしている。ファイがほほ笑むと、彼はわずかに目を細め、ずかずかと部屋の中へ押し入ってきた。
 初めて会った時の装束もこの国での衣装も真っ黒なその男は、存外几帳面な手つきで椀を扱ってみせる。円形の卓に合わせて並べていく。どうも配置にこだわりがあるのか、微調整を行っていた。
 その傾けられた器から、かいだことのないにおいがする。
 にくうどん、と宿の主人は言っていただろうか。それはどんな食べものだろう。にく、は肉なのだろうが。
 配膳をすませると、男はこちらまでやってきて、膝を落として腰を曲げた。ファイと同じようにこのはこが気になったらしい。
 数秒見つめて、手を伸ばす。ばちばち、と鳴りひびく表面を気にせずにあちこち撫でた。
 わあ、ふれてる、さわれてる。と、ファイはなんだか感心した。べつに、しびれるだけで害もない、なんてことはないのだけれど。
 無造作に伸ばされた男の左手には、裂けたような傷跡が残っていた。なにか、鋭利なもので貫かれたのだろう。傷口はとっくに癒えていた。それでも、男の生きてきた世界の片鱗が、たしかにそこにある。
 ファイは男の手の甲から、彼がふれている光の壁へと視線を移した。
 おそらく、この男は人を殺したことがある。
 初めて会ったとき、立ちのぼる血なまぐささが、こちらにまで届いたから。
 その臭いは、真っ赤に染まった城と、王を思い出す。呼び起こされる記憶の光景でうまく笑えなくなる前に、雨が全てを流してくれてよかった。次元の魔女が居る場所が雨空だったことはファイにとってひとつの僥倖だ。
 だが、たとえどれだけ血にまみれた手でも男は――黒鋼は、このはこに拒まれていないような気がした。
(そのまま吸い込まれて、さよならしちゃいそうだね。)
 黒鋼はひとしきり撫でまわすと、今度ははこの外側をさわりはじめる。額縁のような光らない部分だ。抵抗なくつるりとすべらせ、上から下へ手のひらを沿わせる。そこで何かに引っかかったのか動きを止めた。
 確認するようになぞり、親指でぐいとためらいなく押す。
 すると表面の右側に小さな棒のようなものが立ち、一気に右へ数を増やした。
 とたんにとんでもないボリュームで声が響く。
『死なないで!』
 発された甲高い女の声はくらくらするほど大きくて、ファイは無意識にのけぞった。
 間近で浴びたにもかかわらず、黒鋼はびくりとも動かずにそのままはこを凝視している。
 辺り一帯にまで届いているのではないかという轟音で女の声はまた叫んだ。
『死なないでよ……あなたが好きなの!』
 光がかたちを変えて、きれいな女性ときれいな男性を描き出す。それはあざやかな絵で、女性の大きな瞳からあふれる雫が頬を伝っていくのが見えた。男性はそれを、困ったような、うれしいような顔で見つめてふいに笑う。
『ありがとう。おれも、きみと、きみのいるこの世界が好きなんだ。だからみんなを護りたい。』
 そこまで聞いて、ああこの声は彼らの声なのか、とファイは合点した。絵と声が一緒になってひとつの場面をつくっているのだ。
 男性は女性に近づき、やさしくその肩に手をさしのべる。女性は顔をそむけていたが、こらえきれないとばかりに男性を仰ぎ見た。意志の強そうな顔立ちはほのかに赤らんで、男性だけを見つめている。
 その景色は、まるで絵画のように美しかった。一瞬ごとに姿を変える絵が、そのときばかりはぴたりと止まって、向こう側のふたりは息もせずに見つめ合っていた。
 世界がふたりを許している。
「おわ、もう始まっとる!」
 そこへ宿の主である空汰が、いなり寿司の大皿を抱えてやってきた。
 彼は慌てたように卓の中央へ皿を置くと、露骨に眉をひそめてファイと黒鋼を手招きする。
「ちょ、自分ら近いで。見えへん。……や、こっち来て見い、目えわるするし。あと音がでかい! どっちや上げたん!」
 彼の合図に応じてはあいとファイが立ち上がると、黒鋼もしぶしぶといった様子で卓のそばへ寄った。ふたりがのそのそやってくる間に、空汰がはこのどこだかを押してボリュームをしぼっていく。
 おとなしく座ったふたりを見て満足したようにニッと笑うと、空汰ははこを見て言った。
「二人がいた国にはテレビなかったんか?」
「“てれび”ですかー?」
「おう、あの光っとるやつ。そうあれ。」
 ファイがことりと首を傾げて指ではこを示すと、その通りと頷く。そして懐から操り人形、いわゆるパペットを取り出し、手にはめてぱくぱくと動かした。
 その顔は、テレビの正体が気になるって顔やな。得意げにそう言う人形にファイはくすりと笑う。
 そうしている間も黒鋼はずっと“てれび”から視線をそらさない。はこの中で、女性に背を向けて走り出した男性は真っ暗などこかを駆けていく。強大な敵に立ち向かうため、全速力で走ってゆく。
 ふいにその足が止まる。男性の眼前に、巨大な異形が現れる。
 ついに最終決戦のはじまりか、というところで絵が突然変わった。
 先ほどまでとは違う声と音が流れてきて、ふつうの人間が動いている。とてもきれいな人だった。ファイはまたびっくりして、今度は黒鋼も驚いている。
「あー、CMはいったな。CM知らん? 宣伝やねん。会社の。」
 しーえむ、という聞きなれない言葉にファイはへらりと笑ったが、黒鋼は空汰を睨んだ。おそらくはただ顔を向けているだけなのだが人相のせいでそう見えた。
「おい。あいつはどうなったんだ。」
「すぐ映るで。なんや黒鋼、えらいハマったんやなあ。」
 けらけらと笑い声をあげる空汰に応えず、黒鋼は待ちきれないのか“てれび”を射抜くように注視している。いつ戦いがはじまるのかとそわそわしているようだった。
 しかし“てれび”はそんな彼などおかまいなしだ。かわいらしい女性がお菓子を食べるところや、紙に文字を書いてみせているところが、かわるがわる映っている。それらは絵ではなく生身の人間が動いているのだった。
 本当にたからばこなのかもしれない。何でも詰まっているし、きれいだし、そこに全てがあるようで。
 頬杖をついてファイが“てれび”をぼうっと見ていると、空汰が眼前で人形をふりふりと動かした。
「ヒーローもんは人気あるさかいな。ゴールデンタイムは子どもも釘づけや。」
 再びやってきた耳慣れない響きに、ファイは両手で頬を覆って、人形へいたずらっぽくほほ笑む。
「はあい先生。“ひーろー”って何ですかー?」
「ううん、それはな。世界を守る……うーん、そやなあ。……強くてかっちょええ、大切なもんを守ろうとする男やな!」
「大切なもの……、へえ、カッコイイですねえ。」
 せやろせやろ、と空汰は嬉しそうに言う。がその後すぐ、最近はちょっとひねくれとる奴のほうが人気あるけどな、とどこか寂しそうに呟いた。心なしか人形も寂しそうにこうべを垂れるので、わかりやすい人だ、とファイは思う。人形を見ているだけで、何を考えているかわかってしまいそうだ。
 やや下を向いてしまった空汰本人へ、すいっと目を合わせてやる。
「ヒーローが、好きなんですねえ。」
 ファイのおだやかなことばに、空汰とその人形はこくこく頷いた。そしてファイのすぐ近くにまでやってくる。
 まず人形が口を動かした。
「ヒーローはええぞ。まっすぐやしな! どんなことがあっても諦めへん、強い心を持っとる。子どもはみんな釘付けのめろめろや! いろんなことを教えてくれるしな。人間くさいとこもまたええねんな。ちっと不器用やったりすると、応援したくなんねんこれが。」
 空汰の分身が、小さいからだで俊敏に動いて思いを伝えてくる。ふんふんと聞いてやりながら、それはすばらしいことなんだろうな、と思う。そんな人はすばらしい人だろう。美しいわけだと思う。
 次いで空汰本人が、こぶしを握り締めてぐぐぐと顔を下げる。熱の入った仕草だった。感極まったらしく、声がふるえている。
「そして、何といってもヒロイン……! 心に誓った相手を、命をかけて守り通す、そんな男のなかの男……! それがヒーロー!! なあハニー!!」
 沈めていた顔をバッとひるがえし、後ろからエプロンを外してやってきていた嵐へと満面の笑顔を向けた。いつ気付いたのだろう。その頬の染めっぷりときたらいっそ見事であったが、嵐は無言で見つめ返す。
 代わりに嵐の肩へ乗っていたモコナがきゃっきゃとはしゃいだ。
 「なになにヒーロー? カッコイー!」と畳を跳ねて、卓上へとやってくる。大皿にスペースの大半を奪われているので、すぐにファイの体へ飛び移り、頭の上へとのぼってきた。
 空汰のほうはいつの間にか立ち上がり、持っていたパペットを外して、その両手で空をあおいでいる。
「ああ、確かに、ヒーローに心を奪われとる世の女性は多い。けど、ヒーローには最初からひとりしかおらんのや。寡黙に仕事をこなしながら、心の中にはいつもヒロイン! なんてかっちょええ!!」
 嵐は熱弁を振るう空汰を制すかわりに、その耳を引っ張って、旅の同行者である少年と少女が休む二階へと歩いていく。
 小狼とさくら、という名だと聞いている。まだ起きていないだろうか。空汰は幸せそうに痛みを訴えながら嵐とともに消えていった。食事の支度ができたと声をかけにゆくのだろう。
 やがて“てれび”に先ほどの絵が映る。物語はクライマックスらしく、黒鋼は身を乗り出して見入っていた。
 モコナはファイの髪に体をからませながら、楽しそうに言う。
「モコナ、ヒーローだいすきー!」
「うん、オレもヒーローすきー。」
「モコナもヒーローになりたーい!」
「なれるよ、モコナならー。」
「お前ら、ちっと静かにしてろ。」
 生きもののふわふわのからだを手のひらで支えて、口元をゆるめながら、ファイはもう一度光るはこを見た。
 きれいな青年が、ゆるぎない瞳で、戦うべき相手を見すえている。
 敵と青年は、きらきら輝きながら重なり、溶け合って、弾き合って、光っている。
 そこはべつの世界のようで、とても美しくて、とても遠い。
 美しい世界で生きる“ヒーロー”という名の偶像を、ファイは記憶した。
 旅のはじまりの記憶だった。


 それから。
 “てれび”のようなものはあちこちで見かけた。動く絵は国ごとに全然違っていて、黒鋼はそれが気に入ったようで、雑誌と一緒に次元移動をするたびチェックしている。
 小狼とさくらは、記憶を取り戻すたびにどんどん結びつきを深めていって、何かを求め合うように寄り添っている。表情もずっと豊かになって、今はもう彼らが人形みたいだなんて思えなかった。かれらの生き方がファイはとても好きで、美しくて、護りたくなる。
 彼らに求められるたび、空っぽのからだにあたたかなものが入ってきて、ファイはそれに名前をつけられない。ただ、なにも得られない手で、なにかを返せないかと空をつかむ。ためらいながらほほ笑み、そばにいることを選んだ。
 それぞれが支え合うように立って、それぞれの旅を続けていく。
 誰も彼もただひとつを守っている。心のままに。
 “ヒーロー”は気高い。
 うつくしい遠い偶像。
 それは“てれび”の中の世界。
 ファイの前を過ぎるそれぞれの世界は、平べったい表面の向こう側のようにきらきらと輝いて、暗闇を照らして、ファイをかすめてゆく。
 ファイが手を伸ばしても届きようのない世界。のぞむことすらできない世界。
 そのことに安堵して、嘆息して、ひどく情けなくなった。


 ふと目を開く。
 自分が起きたことを知覚する前に、ベッドそばの“てれび”が目に入った。
 ちかちか光るまぶしい画面に、何やら映って動いている。この後のチェストーナメントに出場する選手の話のようだった。
 実際には“てれび”ではなくて“えいしゃき”に近いものらしいけれど、ファイはよく知らない。きらきらしていてふれられないなら“てれび”という認識でいい気がしている。
 それらはきれいなものばかり映すと思っていた。けれども、長く旅を続ける中で、それだけでは在り得ないことにもうファイも気付いている。
 消音にしていたため“てれび”から音は出ていない。画面上で口だけをぱくぱく動かしている人々が少し間抜けで、しっかりと見つめる気にならなかった。
 ただ、ヒーロー、と呟いてみる。
 声はあんまりかすれきっていて、ファイは強烈な喉の渇きを覚えた。またたきひとつ。起きた理由を理解して、ほつれた髪をぐしゃぐしゃにかきまわし、こくりと唾を飲みこむ。
 唾液が食道をすべり落ちて、胃にとくりと注ぐ。
 これじゃない、と痛む。
 ミネラルウォーターか何かを飲もうと思って立ち上がるとふらついた。情けなくてかっこわるい。ファイはぼんやりと死にたくなって、黒鋼へと行きつきそうな心を押さえつける。
 ちらりと窓にからだが映った。光の加減で顔が映らなかったことに、何故だかほっとする。
 瞳の色が変わることが恐ろしい。それに気づくことが恐ろしい。
 眼帯も髪紐もはずして、常になく気をつかっていない自分を見ることが、つらい。きちんとすればするほど息苦しいのはなぜなんだろう。前は自然にできていたことが、できない。誰の前にも行けない。自分の前ですら。
 テーブルに置きっぱなしのままだったボトルを手に取り、キャップを開けて口につける。うまくつかめたことにほっとした。片目になって、ものの位置がよくわからなくなって、前より何かに近づくことをやめて、そうして余計にわからなくなっていく。
 ごくりと喉を鳴らす。たくさんの液体がファイのなかに入り込んできて、ちがうちがう、と胃が喚いた。
 でも、このまま眠ってしまいたい。
 だって今日はあの男に会いたくない。
(……きもち、わるい。)
 半分になったペットボトルを雑に置き、えずきそうになるのを口を閉じて耐える。すっぱい味が広がって涙がじわじわとにじんできた。
 ベッドへと歩き出す。踏み出すたびたぷたぷと体内で液が揺れて、水風船にでもなったみたいだった。
 水でいっぱいの風船は、いつかの国ではかんたんに弾けたっけ。ファイは自身がどれだけ膨れているかを想像する。この薄っぺらで、どうしようもないからだを、満たして弾けてしまえたら。
 ひいひい叫ぶ胃がうるさくて、ファイはどうにも苦しくなった。
 勢いをつけてベッドに沈みこむ。きし、とスプリングが軽くきしんだ。体重の減少を感じる。自分はここまで痩せていただろうかと、光に浮かび上がる手先を動かす。幽鬼のような手だった。
 まるで美しくない、何にもふれられない手。
 ファイはそれで顔を覆って、うつぶせになって、きもちがわるいのを我慢した。我慢しながらひとつ後悔する。
(やっぱり静かにしていればよかった。)
 ボトルを置いた時も、先ほどベッドに入った時も、深夜にしては物音がしたほうだ。
 ファイが起きたことに誰かが気付くかもしれなかった。
 気配に聡い人ばかりだから余計に。子どもたちふたりは、少し離れているので大丈夫かもしれないが、隣室の男には届いただろう。
 今頃、自室でじっと息を詰めて、こちらをうかがっているのだろうか。ファイの部屋にまでやってくるだろうか。
 はは、まさかね、と笑う。うまく口角が上がらないことに苛立つ。
 吸血鬼になってからあの人ばかりが欲しくなる。
 自分が何を思っているのかさえ、もう考えたくない。恐ろしい。
 思考を振り払うように寝返りを打つと、目の前に光があった。
 真っ暗な部屋のなかで“てれび”だけが発光している。
 “ヒーロー”だけがあざやかだ。
「ただひとつを、まもる。そのすべてを。」
 ほとんど吐息だけの声で、ファイは祈るようにささやいた。
 わかっている。“ヒーロー”は“てれび”のなかで、境界線は決して揺らがない。ファイの目の前で繰り広げられるどんな喜劇も悲劇も、ファイは観客としてでしか在れない。何も望んでなどいない。
 誰かにすがらなければ生きることすらできなくなった今でさえ、現実感が無く、引き下ろされないよう必死になって世界を俯瞰しようとあがいている。あざけって突き放してくれる残虐な人がどこにもいない。
 画面の向こうの“ヒーロー”は、みなに幸せをもたらす。
 ファイは、泣きたくなるほどやさしい人々に、何かしたくて、でも恐ろしくて、シーツにくるまる。シーツ越しに漏れてくる光が、眩しかった。消えてしまいたくなるほどに。
 喉が枯れるほど叫べば、ぼろぼろで壊れかけのファイに“ヒーロー”はやってきてくれるのか。
 馬鹿げた妄想をあざ笑って、ファイは再び寝返りを打った。“てれび”に背を向ければ世界はこんなに真っ暗だ。目をつむればそのまま死んでしまえる気がした。死んでしまいたかった。
 ノックの音がする。
 乱雑なノック。わざと乱雑なのが透ける。覚えたての、へたくそなノック。
 行為自体の紳士さを覆い隠すようだった。そして真摯でもある。あの男はいつだってそうだったのだ。
 入室の際のノックは、ファイが言えばすぐ改めてくれたけれど、彼のこういう性質はこちらがどう言おうが変えられない。
(きみはどうして、そんなふうにさわれるの。)
 強く、まぶたを閉じる。
 大声で笑いたくなって、空咳ばかりがあふれた。姿を思い描くだけで渇きが尋常でなく膨れ上がる。本人を見れば問答などしていられないのはわかっていた。明日に延ばすべきではないのだ。お互いのために。
 ごうごうと荒れ狂う身の内から、呆れ混じりに息を吐く。
(いつからこんなにほしかったんだろう。)
 痩せ細って骨ばった手でも、伸ばすことを望んでいたのはファイのほうだったのかもしれない。
 “ヒーロー”は線の向こう、手が届く範囲の人だけを救うはずの存在だった。
 けれど数センチの板の向こう、立ったまま待つこの男は、ファイを迷いなくつかんでしまう。
 その手に、夢想して、おびえて。自分の世界さえ、託してしまいそうで。
 縮こまって頭を抱えるファイを、ノックが急かす。乱雑さが増している。眠ってしまったことにできない。
 男の全てが肉迫していた。
 断罪の時が迫っている。許しなどいらないけれど、彼はきっとファイを棄て置けない。
 アシュラ王のことばが身にじわりと染みて、飢えと合わさって溶けた。
 「待ってよ」と声を振りしぼる。今、開けるから。
 シーツの繭から抜け出して、這うように体を引きずって、置いたままの眼帯をゆっくり手に取る。扉へと進み出す。世界と、自身の距離とが、わからなくなる。自分がどこにいるのかも。
 どこにもいきたくないのだ。どこにもいるべきではないから。
 とぷとぷ、はらわたから音がする。零れ出しそうなどろどろの心を、いったいどうしたらいいのだろう。
(……ここにある。)
 真っ暗な室内に、ファイの足音だけが響く。
 扉の正面に立ち、手を持ち上げて、ドアノブへうまく辿りつくよう誘導する。かつんとつま先が板に当たってびくりと震えた。震えながら、金属の取っ手をつかむ。それは、開けるために。つながるために。
 黒鋼を、ほしいと叫ぶ臓物と、おぞましいと叫ぶ心を、胸の奥底で抱え込んで。
 “てれび”の中のように光り輝いてなどない世界で、きれいではいられない男と、美しくないことをする。
 その全ては、ここにたしかにあって、そのことだけがファイを生かしていた。

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