ツバサ
ひとつの命
黒鋼×ファイ
たったひとつを知るための旅であった。
預けられた銀竜は、いつかと寸分変わらぬ重みで、黒鋼の手の中にある。
*
血飛沫がやけに黒ずんで見えた。
その臭気ばかりが辺りを埋めていて、真っ黒な己もその中に混じっている。混じりながら、白壁まぶしい白鷺城の天守と、そのかたわらの望月を臨んだ。
よく見ると小望月であり、正円となるには一夜足りないのだが、黒鋼はその月の名を知らない。ざっぱに丸いか丸くないか、その程度の判断をしている。歌人でもなし、まして武人なら、月の満ち欠けなど夜の視界に影響するものでしかない。
そう、今宵は晴天高く、見晴らしのいい月夜であった。だからこそ、現れた闖入者に湧き立ち、抜き放しの銀竜を携えて城を飛び出したのだ。
敵に知れるとわかっていて来るのだから、さぞかし実力のある、うぬぼれ屋どもに違いないと。
強い奴と戦うのは黒鋼からすれば望むところだ。喜々として交戦したが、その実肩すかしも甚だしかった。庭まで侵入してきた者たちは、黒鋼が剣尖をきらめかせるだけであっけなくぱたぱたと地に伏す。残された最後のひとりはがたがたと震えて、その手から得物を取り落としていた。
勝手も知らないしろうとが数だけで乗り込んできた。そんなところか、と冷めた目で蔑み、こうべを垂れている残党の髪束を引き上げる。何やらわめいたが、黒鋼は男にもう何の価値も見出していなかった。したがって憐憫などない。
「誰の命だ。」
ぎちぎちと容赦なく引かれる毛根が悲鳴を上げる。男の顔が苦悶に歪んだ。それを見た黒鋼はさも面倒そうに眉間へしわを寄せ、銀竜を握る右手を振る。
近づけられた剣先に怯えて身をよじる男は、鼻水を垂らしながら叫んだ。
「……っ、ぃしし、しっ、しらねえんだよおぉお! か、かね、金が! 金をくれるって、そうだ、金さえありゃあっ! ……なあ兄さん、金だよっ、金なんだあぁ……!!」
じたばたと黒鋼の手中であえぐ男は、必死の形相で黒鋼とその刀とを交互に見ていたが、唐突にぴたっと動きを止める。そして、眉尻を下げ、にやあぁといやらしく笑った。
黄ばんだ歯と、にちゃり、糸を引く歯ぐきが、闇の中で冴えて見える。
「なあ……兄さんだって、人殺しなんざ、したくねえだろぉ? 兄さんだって、金がもらえるから……金のためだろお? おれも、兄さんも一緒じゃねえか。なあ、どうだいここはひとつ、助けると思って、」
懇願にも似た下卑な提案は、最後まで言葉にされなかった。黒鋼は軽く男の顎を浮かせ、伸びた首すじを躊躇なく横薙ぎにする。胴体と頭が離れて血が噴き上がった。ごとりと肉の塊が倒れる合間に、弾け飛ぶ血で具足が濡れていく。ぷらぷらと揺れて鮮血をまき散らす頭部を投げやり、黒鋼は舌打ちをした。
胸くそがわるい。血にまみれた己を月光から隠すように、衣をひるがえした。
どれだけ斬ろうが何てことはない。手に満ちるものもなく、ただ肉の感触のみが鮮明にある。
己が両断した輪切りの面から、どろどろと鉄錆くさいものがあふれる。辺りは死体と、ほどなく固まりだすであろう血で、闇よりも黒く澱んでいた。そこに立っていると、月の光すら届かない深淵にいるような心地がした。
「やってくれましたね、黒鋼。」
馴染んだ声に、振り返りもせず鼻を鳴らす。それは言葉とは裏腹に、あきれたような、幼子のいたずらの跡を目にしたような声音だった。
背後には蘇摩と、彼女が従える忍軍の精鋭たちがいる。わかっていた。統率された忍の足運びはたとえ空気に溶けていようと読み切れる。ぞろぞろ引き連れて来やがってと、黒鋼は早々にその場を去ろうとした。
遠ざかろうとする背に、待ちなさいと制止がかかる。
もの言わぬ死体たちの貧相なかっこうや、苦痛に歪んだ表情、どす黒く濁った周囲をとらえながら蘇摩は口を開いた。
「この場を誰が清めると思っているのです。あなたの振る舞いに、姫様も御心を痛めておられるのですよ。」
「向かってくるやつを斬らねえでどうする。ここに転がるのが俺たちになるだけだ。」
「他にだってやりかたはあるはずです。なぜ、ひとりで飛び出してゆくのです、黒鋼……。」
「とろいからだ。そいつらがな。」
肩越しに遣られた鋭い眼光が強く蘇摩を射抜いた。そして、近づいて来ようともしない忍たちに、つまらなさそうに一瞥をくれ、歩き出す。刀をただす手には、乾いた血がこびりついていた。
ため息を飲み込み、蘇摩は腕を抱きながら呟くように言う。
「あなたは、奪うことでしか……守れないのですか。」
こぼれた問いに返事はせず、足の運びを速めた。
姫様がお呼びです、参上なさい。一転、整えられた語調に、黒鋼は行き先を変えて建物の上へ跳ぶ。瓦を思い切り踏みしめる。踏み砕くような強さで、乱雑に足音を立てて。
こうして進んでゆけば、知世姫付きの女中たちは着く頃にはすっかり消えているのだと学んだ。逃げてゆく姿に思うところはない。たぶん、血が恐ろしいのだ。
黒鋼にその気持ちはわからない。血を恐れたことはほとんど無かった。飛び散る血に覚えるのはいつだって怒りと、やるせなさで、怯えは記憶にない。それは彼女たちと己の生きた道が異なるからで、ただそれだけだ。逃げるなと言う気など起こらない。互いに、ひとえに興味がないのだった。
月の明かりにさらされて、かけられた言葉を思い出す。
何と言われようが、城を守るということは、命を賭して命を奪うことにほかならない。答えを述べるとするならそうだろう。黒鋼はそんなことを、忍軍に迎え入れられた日から、いやそれよりもずっと前から考えている。
奪われる前に、奪わなければならない、ということ。
黒鋼は自身の武勇を信じていたし、武勇によってこそそれが成せると信じてもいた。
武勇によってでしか、成せないことであると。
身にまとわりつく空気を蹴飛ばすように歩く。足音を殺さなくなったのは、いったいいつからだったろう。黒鋼が、悪鬼と呼ばれるようになったのは。
大勢の敵を斬り殺すたび、落胆している。両親の仇の手がかりを、脳髄に焼き付けた奇怪な刀身とその文様を、ずっと探してきた。いまだ仇敵とまみえることはなく、武勇だけがすくすく育ち、鬼と呼ばれる存在になる。肉を骨を断ち、落胆している自分を切り離し、高らかに笑うことしかできない。哄笑し、乱雑に振る舞うことでようやく、次の戦いに備えることができた。
知世姫が黒鋼に授けた銀竜は、手にしっくりと馴染み、いかなる時も共に在る。
授けられた時の「この刀の重みを、決して忘れないでください。」という主君の言葉を、黒鋼はしっかりと覚えている。
まだ幼い手のひらにずしりと重たく圧し掛かる、この刀に懸けて護り通すと誓った。ふるえるほどに重かったそれは、いつの間にか黒鋼の体躯につり合い、今や軽々と扱える。
黒鋼はそれを、強くなったのだと理解している。
弱かった、未熟だった己を忘れることなく、強くなったのだと。
瓦屋根から勢いよく、知世姫がいるであろう一角へと飛び移る。
強くこだました着地の衝撃に悲鳴が上がった。去り遅れた者たちが、手に何やら抱えたまま腰を抜かし、床を這うように散っていく。かいぶつを見るような目をしていた。それはかつて見た人々の、魔物に怯えるようすに似ていて、なにか胸に押し寄せそうになるものを、黒鋼は乱雑に足の裏で押しつぶした。
広間ではかけられた橋の下の水面に発光する月がゆらめいている。そのせいか深夜であるのに部屋全体がどこか明るかった。
白を基調とした布地の豊かな衣をまとっている主君は、どかどか歩みよってくる黒鋼に眉を寄せた。怯えているわけでも、嫌悪しているわけでもない。その証拠に、血糊が点々と付く足跡へとその視線は向けられている。
「何だ。一人残らず斬ったぞ。」
「そのようですわね。……蘇摩に会いましたか。」
壇上からこちらを見る姫君は、顎に手を添えてほうと息をつきながら問うた。彼女の可憐なくちびるから出た名前に、黒鋼はあからさまに顔をしかめる。それを目に留めた知世姫はようやく笑みらしきものを浮かべたが、その表情は憂いにも似た色を含んでいて、何か言いたげで、くちびるは薄く開いていた。
「ああ。会った。」
それだけ言った黒鋼は、口を一文字に結び、あとは何も語る気は無いとばかりにそっぽを向く。
伸びた背丈に似合わぬ幼稚なしぐさに、知世姫はいつかのことを思う。
諏訪の地で出会ったこと。傷だらけの心身を癒し、刀を授けたその日から、長い年月が経ったことを。
ふたりの立ち位置は、以前とすこしも変わらない。変わったものがあるとするなら、黒鋼の背丈と、いまだ滴る血と、乱雑な足音だろう。三十丈も離れていてもあれとわかる忍がどこにいるのか。
あの頃と変わらぬまなざしで、あの頃と変わらぬ真摯さで、知世姫のそばに在るのに、いつしかその足に血潮をまとうことが増えた。彼はもう、血に染まることをまるで恐れない。
いいえ、恐れてほしいわけではない。
「ただ、知ってほしいだけなのですけれど。」
「ああ?」
そっぽを向きながら、知世姫の発する言葉を一言一句聞き漏らすまいとしている忍の前で、主君は祈るように目を伏せた。
いつかこの青年が旅立ち、何かを失うことがあっても、道を失いはせぬように。
その真摯さと強さを抱えたままで、だれかの手を取ることを知ってくれるように。
呼びつけておいて語らぬ姫君を黒鋼は胡乱げに見て、その背後の三日月を模した細工へと視線を移す。そういえば満月はあまり好きではないのだった。いつかの晩を思わせるからだ。満月の日は、刀を手放したくない。
それでも今宵、丸みを深めていく月も、主君も、己も、すべてが無事であり、すべてがこともない。
ただ満たされぬ思いだけが、黒鋼の身の内で渦を巻き、剣の先から滴り落ちた。
*
そっと手を伸ばす。
触れた体は死体かと思うほど冷たく、頼りない脈拍を刻んでいた。吐き出されるわずかな呼気と衣ずればかりが耳につく。それでも集中してその音を聞いていた。
さくらのように、ふいに息が止まって、そのままなくしてしまわぬように。
冷え切った身体からすこしでも熱を逃がさぬよう、清潔そうな布を足元から被せる。腹の浮き沈みを見つめながら固く拳を握り締めた。
押し込められたその中に、建物の内壁を叩き沈めてなお収まらぬ激情が巣くっている。
男を殴ってやりたかった。
世界に存在していないような態度で、かんたんに己を棄ててしまうこの男を殴って、お前がいるのは紛れもなく『ここ』なんだと怒鳴りつけたかった。
過ごした時間、交わした言葉、今までの全てには何の意味もなかったのだと、へらへら笑ってうそぶくのか。
そんなのは許さない。内より湧き起こる憤怒は、黒鋼を突き動かした。気がつけば、生きることから遠ざかろうとする魔術師に迷いなく手が伸び、その痩せた身体を引き上げていた。おとなしく持ち上がる、力の入らない肉体。どこか別の世界へと落ちていってしまう魂を。
『そんなに死にてえなら俺が殺してやる。』
告げた言葉に、嘘はない。人を殺すことはあまりに簡単だった。刀を刺して引けばいいのだから。
黒鋼にはそれだけの力がある。
この優男の、しなやかな身体も、今にも消えてしまいそうな生命の拍動も、細く開いたひとつきりの青い瞳も、その何もかもを奪ってなくすことはあまりに容易い。
それでも、と。眠る男の、無表情なかんばせを見つめた。
小狼やさくらを見ている時の、男のまなざしのやさしさを知っている。慈しんでいたことを。
何かを恐れながら、それでも精一杯の思いをふたりに注いでいたことを。
それは、黒鋼にはできないことだ。彼らをそのように愛すること。大切にする。おまえたちは間違いなく、かけがえのない存在だと。
黒鋼は、そうした男の表し方がきらいではなかった。そのようにある男を、認め、ひとつの尊さとして受けた。
だからこそ腹をくくれと言ったのだ。己の感情が、もはや己の生き方を凌駕し、自身を作り替えたことを、自分で認めろと告げたのだった。
交わらない場所にいたはずの男は、ついに思いのまま手を伸ばす。そして、力を尽くし、ここで倒れた。
そのはかない生を、自ら終えようとしている。思いを棄てるつもりで。何もかもを忘れて、遠い世界へいくために。
『だから、』
あの時。言葉の続きを待つ青く澄んだ眼を、強く見返した。刑の執行を待ちわびる罪人のような顔をしていた。黒鋼の正しさを信じて訴えかけていた。
乱暴で、乱雑で、寄り添うよりも突き放すことばかりを選んできた己を、祈るように見つめてくる。
駄目だ、どこにもいくな。消えるな。
自身の願いの傲慢さをわかっていた。これからすることが、彼の生きる道をねじ曲げる行いであろうことも。
だから。
俺は、こいつの願いを奪う。
『それまで生きてろ。』
発した言葉の重みに、総毛立つような心地がした。
殺してやるから、生きていろ。
ぶるっと身を震わせる。さくらは対価を払う旅に向かい、今はもう辺りの人払いが済んでいた。物音もかすかな静寂の中で、ずきりと傷口が痛む。男が変わってゆくさなかにつけられたものだった。
人から吸血鬼へ。
細胞が変質する痛み、その体内の鳴動に朦朧として、やみくもに伸ばされた両腕が、押さえつけようとした黒鋼を掻きむしった。立てた爪は肉を裂き、責めるようにきつく食い込んでくる。
ぎりりと皮膚を削り、その奥にある黒鋼の魂すら、抉り取ろうとするかのように。
激痛が襲い、そうして初めて触れ合った気がした。
伝わってくる痛みから、言い知れない求めと拒絶が流れ込み、心底から揺さぶられる。
生の渇望。
それは叫びに似ていた。
いきたいと、叫んでいる。いきたくないと、叫んでいる。
声は混ざり合い、溶けて、そのあまりの重圧にふらつく心地さえした。けれど縋るように繋がる指先が、ふたりをここに留めていて、その繋がりは男がひとでなくなるまで続いた。
心臓が早鐘のように胸を打ち、黒鋼に溜まった思いの奔流は、高波となって荒れ狂い、はらわたにぶつかっては弾けた。水圧を増す魂が、打ち震えては言葉にならない叫びを上げるのを、ただじっと聞いていた。
やがて、ぱたりと男の手が落ちる。爪の中までにじんだ血はすでに洗い流されて、青白いまま空気にさらされていた。
痛々しく散らばった包帯を、くしゃくしゃに絡まった髪を、ひとつひとつほぐし、もとのままの姿へ戻したのは黒鋼だ。だが、決して戻らないものもある――数瞬、鋭く冴えた金のきらめきは、黒鋼を貫くように輝いた。
ひとではなくなったのだ。黒鋼の存在無しには、飢えて壊れるかいぶつになった。
それでも、生きている。
一行はかたちを変えていく。姫の帰りを、男の目覚めを、焦がれるように待ちながら、ひたひたと迫る変革の足音を感じていた。もはや目を逸らすことはできない。それは誰しも同じだった。決断の時が近づいている。
両腕に刻まれたたくさんの軌跡が、いまさらに臓腑へ満ちて、それを後生大事に抱えていることに気づく。
二の腕に残る、細長い線のようないくつもの傷跡は、じきに癒えるだろう。けれども黒鋼はこの痛みを忘れることはない。
掴んだものは、あまりに重かった。
瓦礫から覗く空は重苦しくよどみ、行き場をなくして垂れ込めている。陽の光も、月の光ですら届きそうになかった。ここでは月の形などわからない、知りようがない。また降るのだろうか。姫が帰るまで、もつだろうか。
酸の雨に焼かれた、荒廃した世界で、黒鋼はひとつの枷を負った。
*
とてつもない魔力の螺旋が、世界と次元を覆っている。
閉じゆくセレスの大地から魔術師の身体が出てこなかった。
彼を中心として魔法陣が広がっているからだ。展開したそれより来たりし呪いは、ぐにぐにと形を変えて辺りにある全てを巻き込み、黒く染め上げ壊していった。終わりに近づいているのだ。世界が揺れ、軋み、黒鋼たちを呑み込もうと迫る。
先に離脱した姫と少年が、モコナを使って穴を開けてきた。望月にも似た赤光で、切りひらかれた境界から己は出てももうひとつ、ただひとつが出てこない。
強く、渾身の力を込めて引いても、ふれているのにあちらとこちら、世界を隔てて在るようで。
まっすぐに伸ばされていた手がふいにその力を抜いた。行け、と口が動く。その目には黒鋼だけが映っていた。
忘れもしない。その腕が黒鋼を掻き裂いた。その身体には、黒鋼の血が巡っている。忘れられるはずがない。その全ては、今も黒鋼の魂を満たしている。
ただ、生きろと願った。
逃げることも誤魔化すこともやめて、かたくなな物言いをするくせ、その実祈るように目を伏せてきた男を、ここに置いていくことなど出来ない。
足りないのか、と思った。
何が足りない。力か。血を失いすぎて意識がやられているから、だから掴んだものを、この胸に引き寄せられないのか。
視界がぼやけ、男が遠ざかっていきそうになるのを、歯を食いしばって耐える。万力を込めても遠かった。確かに繋がっているのに。確かにここにあるのに。男の指先、肉の感触、生への渇望。
共にいきたい。
失いたくない。
身体を割ってあふれ出しそうな心へ、ふいに懐かしい呼び声が重なった。
≪共に行きたいと、心から願うなら――、≫
この声。
主君の気配だった。すぐそばにまで来ている。凛と澄んだ声音、彼女が身につけた鈴の音が、釈迦の救いの糸のように届く。姿すらまざまざと浮かんだ。
黒鋼は習慣として、救済の光明として、それに耳を傾ける。
≪その方と同じ、魔の力を持つものを引き替えに。≫
聞いて、黒鋼は瞬時に辺りを把握し、左の手のひらで息づく魔術師の力を感じた。同時に、その手背に刻まれた過去の己の痛みも。
いつか満月きらめく諏訪の地で、知世姫に諫められた。すでに守ることすら選べぬ血に濡れた母のなきがらを抱え、父の銀竜を手に我を忘れた、けだもののような己につけられた傷だ。
おぞましい、ふがいなさとやるせなさと、焼けつくような怒りの記憶。
これで、足りるか。
男から手を離す。それは、確実に、魔法陣の中へ左腕を落とし込むために。
だのに男の瞳は安堵と消失の許しに揺れた。弱弱しくたたえられた笑みは今にもかき消えそうで、刀を握る手が震える。
(俺はお前を裁かない。決してだ。だからお前も、俺を許すな。)
たとえ、悪鬼と恨まれても。
一思いに、肩から叩き斬った。肉を芯から断ち切られる感覚は初めてだったが、そう痛くもない。吸い込まれていく腕の断面を見ている暇さえなかった。
軽くなった左の代わりに、重たくてしかたがない男の胸ぐらを掴んで引き上げる。
ぱさり、特有の文様で彩られたぶ厚い上着が、魔法陣の中へと落ちかかった。いろんなものを置き去りにして男をこちらへと連れて来る。
どうしようもないほど重い。
魔法陣から出た男を支えきれずに倒れ込む。ぐらぐらと視界が流転した。そうして世界も流転する。
どうやら足りたな。鈍くなってゆく感触をとらえながら、握ったままの手に力を入れた。
両腕でいだくことはできなくとも、確かにわかる。
ここにある。
ようやく、ここにある。
ずっと足りなかったものを手にしたのだ。この充足感はおそらくそうだ。左腕を、忘れられない弱さの記憶を棄てて、ひとつの命を選べたのだから。ひとつを生かせたのだから。
だから己も、死ぬわけにはいかない。
意思とは裏腹に閉じていく瞼の先で、慣れた空気が肌を包むのをおぼろげに感じた。