ツバサ
さよならパラレルライン
黒鋼×ファイ
知世姫が静かに部屋を去っていく。
彼女の後ろ姿を目で追いながら、ファイに殴られた頭をさする男を眺めて、殴った当人は静かにまたたいた。
そして、夢を見てたんだよ、と言う。
罪を告白するような口調ではなく、ずっと昔の、懐かしいものを思い出すような声音で。聞きながら黒鋼もまた旅のはじまりを思った。
ここ白鷺城から全てははじまり、また帰ってきた。過ごした日々はたくさんの跡になって黒鋼の身に残り、今もどくどくと脈打っている。
ファイはそうっと自身の手のひらを持ち上げた。何かをすくい取るように。
「夢のなかで、きみの手だけがある。」
夢見るように言うので、黒鋼はついファイの顔をまじまじと見てしまう。
ファイはその視線に気づいたのかいやそうに笑って、黒鋼に背を向ける。そのまま明かり障子のほうへと歩いた。
開かれたそこから空を見上げる。満月にはまだ足りない、欠けた三日月が浮かんでいた。
足りていないのだと、黒鋼にもわかる。
「きれいな月。」
ファイがぽつりと呟く。
黒鋼は、日本国の満月がもっと美しくてすばらしいことを伝えたくなった。
まん丸な月がのぼる夜はどこもかしこも明るくて、ふだんは夜闇に怯えるものも思い思いに土産を持ち寄る。高く輝く月を眺め、みんなで酒を飲み交わし、大声を上げて笑い合うのだ。
諏訪の国ではいつだってそうだった。
なぜそのことを伝えたいのか、伝えたいと思えたのか、ということを考えて、黒鋼は眉間のしわをやわらげる。
それから、美しさをあらわす言葉をあまり知らないことに気づき、ただファイの伸びた背すじを見つめた。
日本国の着物は彼にたいして似合わない。この優男は何でも着こなすが馴染みはしなかった。似合わないというのが、何だか珍しい。
そう思っていると、ファイの指が、障子の木目をするするといたずらになぞっていく。
「きれいな……。」
腿のそばまでたどった指を、そのまま自身へと移してそっと腕ごと身体を抱いた。顔を伏せたらしく、束ねられた髪から首すじがのぞき、金のうぶ毛が落ちかかる。
ずいぶんと伸びたのだった。
何を考えて伸ばし出したのかは知らないが、旅のはじめの頃はていねいに切り揃えていたのを覚えている。だから見た目がそう変わらなくて、何歳なのかも不明で、余計に胡散くさく感じもした。
髪が伸びればおのずと過ぎた日々を思う。
だから、長さに気づくたび執拗に刈り取っていたのだろうか。
ならばまったくその調子で伸ばし続けて、三つ編みにでもしてしまえばいい、と鼻を鳴らした。長い髪はうっとおしいがそう似合わなくもないだろう。
黒鋼が目をすがめていると、ひょいと顔を上げたファイが口を開いてくる。
「オレさあ。きみにしてやりたいことがあるんだ。」
言い放ってくるりと向き直る。長い裾と金髪が流れてまとまって、不器用な笑顔があらわれた。
笑いたいのか泣きたいのかどっちつかずの、細められたまなざしだ。
ファイの言い分に、先ほど思い切りげんこつを食らわせてきたことを思い出した黒鋼は渋い顔になった。
「てめえ一発殴っただろうが。あれで十分だろ。」
「ええ、それ本気で言ってるのかなあ。全然足りないよ。もう、本当に。」
ちいさな笑い声を上げてファイはまたたく。その青の瞳が月光を背に暗く光った。彼は慣れたすり足で床板をすべり、黒鋼の右脇へ正座してくる。
よどみなく手が伸び、黒鋼の無事な右手を持ち上げてきた。さらさらと撫で、だから、と握る。
「これくらいは、照れずに受け取れよ。」
くいっと引かれ、傾いだ頭にファイの手が回されて、頬へ顔が近づいた。
音も立てずに唇がふれる。
ふわ、と頬にやわらかな感触が落ち、わずかな温度を残してすぐに離れた。
ぽかんとする。頭が真っ白になったまま、かろうじてファイへ目が動いた。ぱっちり開かれた瞳とかち合っても、言葉が何一つ浮かんでこない。
白い手が耳元から去り、ファイの身体が離れていくのをただぼうっと見つめていた。
黒鋼の阿呆面にとうとうファイが、ぷ、と噴き出す。
「きみってかわいいなあ。」
反応がどうやらツボに入ったらしい。ふふ、と吐息混じりに笑う彼はとうとう腹を押さえはじめる。耐えきれないとばかりに背が丸まった。
目の前でさも苦しげに揺れている男に、からかわれたのだとようやく気づいた黒鋼がおいと低く呼びかける。ファイは爆笑しているのかそれどころではないらしい。
触れられた頬の一点にまだ温もりが残っている。黒鋼はそれを乱暴にぬぐうと、無防備なファイの手先をとらえようと身を乗り出した。
容易くつかまった腕をぐいと引けば、わ、という気の抜けた声と共に、ファイが布団へ倒れ込んでくる。金髪が広がって石けんのかおりがした。笑いすぎたのか瞳を潤ませながらこちらをうかがっている。
つかんだ手は軽く汗ばみ、脈拍はだいぶ早かった。生きているものの手だ。黒鋼は確認するように手首から手のひらへ肌をなぞり、少し伸びた爪をかりかりと掻いた。
脈拍は早いままだ。むしろ増している。
無抵抗を不審に思い、顔を向けると、何か考えごとをしているのか焦点の定まらないファイがいた。
おい、と再度繰り返すと、いつの間に色が変わったのかするりと金の眼球が動き、黒鋼の身体を見る。胸を見て、目線は左に逸れた。黒鋼の左肩を見つめている。
無感動な視線に感じても、おそらくはそうではない。ぽっかりと空いた肩から先にあったものを、ファイは今も思っている。
すっとお互いに黙り込む。ふれあったまま同じ場所で沈黙した。
黒鋼はもう、自身が言葉を多く持たないことを知っていたし、ファイも自身がどれだけちぐはぐなのか理解することができていた。
ふたりは思う。
それでも、交わらない世界から手を伸ばし合い、失って、得て、ここにある。それが全てだと。
布団越しにじわじわ共有する熱が心地良く、黒鋼はあくびをかみ殺す。ファイは目ざとく、くすりと笑って起き上がった。
「寝なよ、病人さん。」
生理的な涙で視界がぼやける。やわらかな声に眠気を自覚して頭を掻く。
離れてしまったファイの手がふらふらただよっているのを、何だか頼りなく感じていた。
「小僧と、姫は。」
苦しまぎれの問いに、寝てるようと語尾を伸ばして答えてくる。月がもう今日の役目を終えようと沈みかかっているのだから当然だ。やがてまた陽がのぼってくる。
ファイは得意げに笑っていた。そのくちびるがうまく弧をえがいているので、なぜかもどかしい心地になる。
「さくらちゃんも小狼くんも、モコナだって寝ちゃってるし。けど、オレが起きてるから。だから、黒様も眠っていいんだよ。」
ぱちぱちとまばたく瞳はもうもとの青色だ。たっぷり睡眠をとった後なのか、生き生きと月の光を反射してくる。金色にけぶる髪が月光にいりまじって、声も黒鋼を眠りに誘う。
夜は忍者にとって仕事の時間だ。起きていることなど容易いはずなのに、いったいこれほど安堵しているのはなぜなのだろう。気を張れそうもない。
いや、何にそれほど、せき立てられる必要があったのか。
黒鋼は、ゆらゆら危なげな手をじろりとにらんで言った。
「……ふらふらうろつくんじゃねえぞ。」
言いつけるような口ぶりに、ファイがええ、と笑う。困ったような照れくさいような顔を手でわずかに隠した。
そして目を伏せる。まつ毛がふわりと広がって、何か迷うように、手で口と鼻梁を覆った。
数秒そうしたあとに手をどかし、にこりと口元だけでほほ笑む。それはもう完璧でへたくそな、がんばって余裕を出しましたと言わんばかりの顔だったので、言葉が飛んでくる前から黒鋼はにやりと笑ってしまった。
「じゃあ、ここにいようか?」
ささやくように発せられた問いかけは思っていたよりずっと素直で、黒鋼はたいそう気を良くする。
「ここにいろ。」
告げて枕に頭を落とす。目を閉じても気配がどこかへ行くことはなく、その息遣いが変わらず聞こえた。ごそごそと床と体がこすれる音がして、座りこんだのであろう振動が伝わってくる。
どれくらい経ったか、ふいに、ファイが息をちいさく吸いこんだ。震えているのがわかる。なんだかそれは、眠っていたことにしたほうがいい気がして、黒鋼は動かなかった。いつ眠りについてもおかしくないような、あいまいな意識であったから、というのもある。
おやすみ、という声がかすれていた。
黒鋼が眠るまで、眠った後も、それからも、ファイはそこにいた。
月光と美しい世界が、ふたりを許し合っていた。