駆けよ戦車

第1章 第1節
竜の聖別
傾向:暴力/暴言

 ほろの切れ間にのぞく空へ、光のはしごがかかる。示し合わせたように竜が姿を現した。
「“聖別”だ⋯⋯」
 せま苦しい馬車に乗り合わせていた人たちが、忌まわしい呪いのようにささやく。伯母のひびわれた指がぼくの頭をなでて、それから布を被せてきた。
「ハーヴ、静かに。聖別アレを受けたらおしまいだ。王都へ行けなくなってしまう」
 言うとおりにする。そのつもりだったのに、静かにしなくちゃと思ったとたんに体がカタカタと震えはじめた。
 伯母がぼくを見下ろしている。責められているような気持ちになる。
 ――そう。ぼくはどうしようもない腰抜けだ。
 ――だけど、だとしたら隠れる必要はない。『選ばれる』はずがないんだから。
 かろうじて被っていたぼろ布がずり落ちていく。もう一度ほろの向こうが見える。
 雲間から差す光のもとに、その生きものはいた。
 ほの白い肌を包む、虹色に透きとおったうろこ。絹よりもやわらかな黄金のたてがみ。光をまとった巨大な翼。
 馬に似た四つ足で、けれどもずっと大きくて、神々しい。まさしく天上の生きものだった。
 乗っていた馬車がのろのろと止まる。竜はぼくたちの前で地に足をつけ、翼を折りたたんだ。同時に羽が幻のように立ち消えていく。
「羽が⋯⋯なくなっちゃう?」
「あれは神獣が起こす“奇跡”さ。どんなものでも魔法でかたどってみせるっていう。なくなったんじゃないよ。造ったのと同じに、消しただけだ」
 伯母が竜をにらみながら言う。きせき、とぼくはくちびるだけでつぶやいた。
 これほど間近で見たのははじめてだったが、なるほど神の御業だ。竜のなだらかな背にはいまや羽根のひとつも残っていない。
 蹄が硬い土を蹴る軽やかな音とともに、こちらへと近づいてくる。伯母がぼくに覆い被さってきた。何日も洗っていない肌の酸っぱい臭いが鼻をつく。
「出ていっちゃいけないよ。ここにいるんだ。なにを言われてもね」
 ささやき声は、叱るときよりもずっと真剣だった。言いつけどおりに小さくなっていたほうがいい。そう思うのに、ぼくは外の世界から目がそらせなかった。
 空の裂け目からもう一頭、竜が車を引いておりてくる。
 天高く浮かぶ雲よりも白い、きらびやかな箱型の車と、超常の力で空を駆ける竜。それは国が誇る最強の兵器――戦車チャリオットの勇姿だった。
 巨大な車輪が大地へと叩きつけられる。地響きの後に刻まれたわだちは、どの馬車のものよりも深く道を抉った。車が動かなくなると、いつか式典で遠目に眺めたときよりもはっきりと車体が見えるようになる。
 彫りこまれているのは、まだ小さなつぼみから満開に咲き誇るものまで、大小さまざまな花々だ。散らばる花びらを抱きしめるように、あやふやな煙の凹凸おうとつがうずを巻いて車体を彩っている。なだらかな壁面は優美な石細工のようにつやつやしていた。
 きらびやかな見た目とは裏腹に、窓は小さい突出し型のがぽつんとあるきりだ。閉ざされた窓辺にくれないと金の国章エンブレムがしるされた垂れ布だけが揺れていた。
 御者台に座る短い黒髪の男が頭をかいて後ろを見やる。白い布がめくられて、中から金髪の男が出てきた。ふたりとも国章が縫いつづられた白いローブをまとっている。
「ちっ。いまいましい騎士どもめ。二度と見たくなかったってのに」
「あのふたりが騎士?」
「ああ。“竜を駆るもの”なんて聞こえはいいが、ようは国の子飼いだよ。⋯⋯そんなことはどうでもいい。顔を伏せな。私がいいと言うまで大人しくしてるんだ」
 無理矢理下を向かされる。その直前に、金髪の騎士が自分たちの竜をひとなでしてからこちらへと歩いてくるのが見えた。
 吐息すら聞こえそうなほど静かだ。近づいてきた足音は馬車の正面から乗り上がって御者台を踏み越えた。凛とした声が響く。
「竜の聖別だ。全員おりろ」
 そうっと視線だけ向けると、金髪の騎士がぼくたちを見下ろしていた。
 我が子を胸に抱く女性や、老いた親を背に庇う少年が、ありえないものを見るような目で彼をにらむ。
「聖別がなにを意味するのかはわかっているはずだ。年に一度、竜がともに歩むに値する相手――すなわち次代の騎士を選ぶ。おまえたちのなかに“それ”がいる。選ばれた者は、こちらへ来てもらう」
 彼の言うとおり、聖別は国を挙げて新しい騎士を選ぶ行事だ。同時に祝祭でもある。もしも騎士になれたなら誰からも祝ってもらえるだろう。とても名誉なことだし、自分も家族も一生生活に困らないだけの手当が出るから。
 そんな良き日に、安い乗合馬車へ身をよせて旅路を急ぐというのだから、ここにいるのは事情がある者たちだ。それは騎士の男もわかっているはずだった。
 誰も動こうとはしない。騎士はもう一度声を張り上げた。
「聖別を拒むことは許されていない。みなここへ並べ」
 冷ややかに馬車を見わたす。動かない者、動けない者へそれぞれ視線を向けて、彼は眉間にしわをよせた。
 おもむろにそばの子どもをつかんで引きずり出す。母親らしき女が悲鳴を上げた。
「なんてことするの! まだ三歳なのよ。ほんの子どもなのに」
「赤子でも男なら聖別を受ける可能性はある。ひとり残らず出てもらう。これは決まりだ」
 馬車からおろされた子どもは、自分よりもはるかに大きな生きものを前にすっかりすくみあがっていた。しかし竜はそれを気にとめるようすがなく、じっと車内をうかがってくる。
 ふいに、竜の澄んだ瞳が自分を映している気がした。手のひらにじわりと汗をかく。
「次、おりろ。もたもたするな」
 騎士はきびきびと乗客を連れだしていく。車内からどんどん人が減って、ついに伯母へと声がかかった。
 伯母が首を横に振っている。心臓が握りこまれたみたいに苦しい。息を吸うことができなくなる。
 伯母と騎士の声が、遠くぼやけて反響した。
「行けないよ。この子は病気なんだ」
「たとえ死にかけているとしても特別扱いはできない。おろせ」
「死にかけの子どもが騎士様になれるってのか?」
「それはおまえが決めることじゃない」
 伯母を押しのけて見知らぬ男の手が伸びる。肩をつかまれて怖気立った。
 瞬間、体に衝撃が走る。視界が二重にぶれて、つかむ手がよく知った腕に変わった。血管の浮き出たこぶしが高々と振り上げられる。
 ――やめて! 殴らないで!
 とっさに頭を守って伏せる。吐きかけられる唾と罵声が刃のように突き刺さった。「この、臆病者が」「恥さらしが!」鮮やかすぎる光景が脳みそをかち割って押し寄せてくる。
 ぼくが悪いんだ。頭が、痛い。空気が足りなくて目の前がかすむ。ぼくがだめだから。どれだけ塞いでも、耳の奥から声がやまない。
 ただ這いずった。床に爪を立てて、体を抑えこもうとするものから逃げようとした。顔を腫らした幼いぼくが磨かれた床に映っている。「また逃げるつもりか」「お前のような出来損ないにつとまるわけがない!」そう。そのとおり。だからぼくは棄てられた。ぼくはもう跡継ぎじゃない、ぼくにはもうなにひとつないんだ!
 見えないなにかにぶつかって、背中から圧しかかられる。頬へとぬるい息がかかった。
 ――おしまいだ。
 目をみはった。肌にふれた温もりは、生まれたての赤子を撫でるように、ぼくの頭からあごまでをさすった。
 ふれられているだけで、青あざにまみれた体の痛みや、耳から脳まで貫くような怒声が遠のいていく。真っ暗だった視界が晴れて、かたわらにある温もりの正体がわかるようになる。
 なめらかな鱗の肌と、ふわふわ揺れるたてがみに包まれている。竜がぼくに寄りそっていた。
 いつの間にか濡れていた頬を、長い舌がそうっと舐めていく。避ける間もなく首すじへと鼻先が押し当てられる。
 ぐ、と押しこむようにして噛まれた。たった一度きり。痛みもさほどなく、すぐに竜は顔を離した。
 それきり興味もなくしたように、馬車とは反対の方向へと歩いていく。
「おまえか」
 騎士がつぶやく。身につけていた服ごとつかまれ、馬車の外へと連れだされた。
 後ろから伯母の声が追いかけてくる。
「待ちな。その子を連れていこうってのか」
「この者は聖別を受けた。これからは騎士として生きなければならない。俗世とのしがらみは、たとえそれが肉親であったとしても、必要ない」
 言葉が耳を素通りする。ぼくが、聖別を受けた?
 動けないでいると、騎士は小さく息を吐いてぼくを抱き上げた。軽さに驚いたのか、体をまじまじと眺められる。
 待ちな人さらい、と伯母が獣のようにうなった。
「その子を放せ」
 ギチギチッ、という音がして、見れば伯母が矢をつがえている。矢じりは迷いなく騎士へと向けられていた。当然ぼくにも向いていたけれど、伯母の腕前を知っていたから恐ろしいとは思わなかった。
 下ろされるかと思ったのに騎士は少しにらんだだけで足を止めない。動くなと命令されても振り返らなかった。伯母の声が大きくなる。ややあって、軽い木の枝が力任せに潰されたような音が響いた。
 伯母のはなった矢が、ひしゃげて足もとで散らばっている。風に飛ばされて見えなくなった。
「ハーヴェイン!」
 名を呼ぶ声にはっとする。目の前には戦車の垂れ布があった。体を支える手を振り払おうともがいたが、軽々と車内へ放りだされる。
「サジッタ! た、助けてっ」
 かすれた声で伯母を呼んだ。戦車はすぐに浮かび上がって、飛びおりようとしたところを抑えられる。もめている気配を感じてか、竜の手綱をとる黒髪の騎士が顔を向けてきた。
「危ねえな。寝かすか?」
「だめだ、乱暴はできない。それに起きたとき余計に混乱する」
「着いちまえば一緒だろ。にしてもあのおばさん、うまいな。“迷彩”にヒビ入んじゃね」
 黒髪のほうが口端を吊り上げてなにもない空間を指す。ちょうど、サジッタの放つ矢がそこへ突き刺さった――と同時に、風景が細かく震えて歪む。ピシリと空間に亀裂が入った。
 透けていたはずの向こう側が、見る見るうちに色を変えていく。
 黒々としたつややかな甲羅が車体を覆っていく。伯母の、サジッタの姿が見えなくなる。
「すっげえ! これが魔法?」
「そこからさわれる?」
「さわってみて、さわってみて!」
 車の中から子どもの声がした。振り返れば、ぼくより少し大きいぐらいの子どもたちが窓を開けようとしている。彼らがぐっと押し込むと外側へ窓がせりだした。
 細い腕を伸ばしてみせる。と、それを見た金髪の騎士が眉を吊り上げた。
「手を出すな。けがをするから」
 怒られた子どもがびくりとする。彼らがこうべを垂れて戦車の奥へ戻っていくと、騎士はゆるやかに片手を上げた。その手にはめられた蹄型の腕輪が光る。
 とたんに甲羅がゆれ動きはじめる。硬い岩がこすれ合うような音とともに、ヒビが溶けて消えていく。まっさらになってすぐ見計らったように窓がひとりでに閉まった。
 ふう、と息をついた金髪の騎士がぼくを見下ろしてくる。
 冷たそうな青い瞳が怖かった。ぶたれるんじゃないかと思うと足が震える。かちかち鳴る歯がやけに響いて、彼が口を開く瞬間に目を閉じた。
 怒鳴られる! 心臓が痛いくらいに縮こまった。
 とん、と肩に手が置かれる。吸い込む息が甲高く引きつる。
「落ちついて。むずかしいかもしれないが、ゆっくり息をして」
 先ほどよりも穏やかなはずの声に怯えた。ふれられるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。見知らぬ手のひらの感触が恐ろしくて思わず振り払ってしまう。
 サジッタじゃない。サジッタはもうそばにいない。自分を守ってくれるものは、ここにはなにひとつないんだ。
 あの頃みたいに。
 そう思うと、閉じたまぶたの裏にいつかの光景がちらつきそうで、必死になって目を開けた。
 うっすらとした視界のはしに、差し伸ばす寸前で固まった騎士の腕が見える。ぎこちなくこぶしを握り、そのまま彼の背へと消えていった。
「怖い思いをさせてすまない。到着まで休んでいてかまわないから」
 ――到着って? どこへ向かうっていうんだ。ぼくはもうどこにも行きたくない。
「っぼ、ぼ、ぼくをどこへ⋯⋯つ、つれてくの」
 体の震えが止まらなかった。焦ったときに言葉の出だしがつっかえるのは、ずっと前から治らないくせだ。
 おそるおそる、騎士を見上げた。
 彼は痛みに耐えるように眉をよせ、じっとぼくを見つめていた。
「学舎へ」
 がくしゃ、と繰り返すと、彼はうなずく。それから罪を告白した後のように目をふせた。
 視線が合わなくなった右腕にすがる。白いローブはつるつるとして、あっという間に指先からすべり落ちていってしまう。
「お、おねがい。おろして。サジッタに会わせて」
「それはできない。聖別を拒むのは大罪だ。本人にもかばった者にも、重い罰がかせられる」
 首を横に振られてうなだれた。彼はぼくを振り払いはしなかったが、かといってさわってくることもなく、ただ淡々と言葉をつづけた。
「あの女性はきみの家族か」
 家族。その言葉が意味するものに、ぞわりと鳥肌がたった。
 じわじわと涙がにじんでくる。金髪の騎士は苦しそうに「すまない」ともう一度謝って、静かにぼくから離れていった。
 彼はきっと勘違いをしただろう。でもそんなことはどうだってよかった。
 戦車はなおも進んでいる。おそらくは『学舎』へと。
 『学舎』のことはよく知らない。騎士を育てるところだと聞いたことがあるけれど、どこにあるのか、どんなことを学ぶのかはわからない。
 わかるのは、家族のもとを追い出されてからずっと一緒にいてくれた伯母、サジッタと離れ離れになってしまったことだけ。そして、もしかしたらもう二度と会うことができない――そんな信じたくもない事実だけだ。
 涙がぼたぼた落ちた。ぼくがべそをかいていると、何人かの子どもたちが声をかけてきた。ぼくにはそれが恐ろしくて、壁ぎわにひっそりと座りこみ、顔を覆って小さくなった。
 怖い。見えるもの、聞こえるもの、なにもかもを塞いでしまいたい。膝が濡れて冷たくなっていく。
 涙がおさまってしばらくたっても、ぼくは顔を上げることができなかった。
 気がつくと、子どもたちの声で騒がしかった車内は静かになっていた。竜の羽ばたきと、車が風を切る物悲しい音が響く中で、吊り下げられたランプの炎が危なげに揺れている。ゆっくりと顔を上げれば、開かれた垂れ布の向こうで星が輝くのが見えた。
 夜空の方角は北西だ。王都からは離れていっている。星の並びだけは、いつでも変わらずに向かう先を教えてくれた。
(⋯⋯星図は神々のしるべだ、って聞かせてくれたのはサジッタだった)
 不安で眠れない夜が来るたび、今夜はあの星の話だと指してくれたのを覚えている。
『そら、こっちへおいで。ウサギみたいな目して、なにがそんなに悲しい? ハーヴ』
『さ、サジッタ、っぼくは⋯⋯、ぼく⋯⋯。ご、ごめん。泣いてばかりで、ごめんなさい⋯⋯』
『ばかだね。下を向くから涙が出るんだ。ごらん、星がきれいだよ――』
 差しのべられた手がそっとぼくの目もとをぬぐった。
 ひびわれたほら穴の中、ふたりで空を見上げた。暖かな毛皮に顔をうずめながら、そばにサジッタがいてくれることを心からうれしく思った。
 ふたりで過ごせた日々は本当に幸せだった。
 いつまでもあの場所にいられると思っていたのに、もう戻ることはできない。たったひとりで、この先どうすればいいかわからない。
 乾いた目にまた涙がにじんだ。鼻をすすったら誰かを起こしてしまいそうで、顔を伏せて丸まろうとする。
 ふいに声が聞こえた。
「するべきじゃなかった」
 それが、あの金髪の騎士の声だとわかるまで少し時間がかかった。頼りなさすら感じるほどに、か細い小さな声だった。
 彼のつぶやきに答えるのは同じく騎士である黒髪の男だ。月明りが彼らの背を染めて、白々とした騎士の正装をつくりもののように夜から切り離している。
「珍しいな、ライが落ち込んでんの」
「騎士なんて名ばかりだ。やっていることは誘拐犯とかわらない」
「しろって言われたことをしてるだけだろ」
「班長なんて断ればよかった。戦地へ行っていればこんなこと、」
 そこで言葉が途切れる。起きているのに気づかれたのだろうかと思ったけれど、衣ずれのあとに会話はつづけられた。
「すまない、レフ」
「うん。ちょっと寝るか?」
「そうさせてもらっていいか」
「また起こすよ」
 それきり静かになって、ランプの火も落とされた。
 いつの間にか涙が引いていた目もとがぴりぴりと痛む。まどろみのふちで、二頭の竜が戦車の先をゆうゆうと駆けていく。
 たったひとりで手綱を取る男の背はとくべつ気負ったようすもなく、その後ろではライと呼ばれていた金髪の騎士が、腕を固く組んで横になっていた。
 彼らは騎士――竜を従える者だ。選ばれた人間しかなることができない、人知を超えた力で敵を蹴散らす無敵の兵科。その名に列するため、神に祈りを捧ぐ子どもたちが後を絶たないほどの存在だった。
 だが同時に、騎士になる前にどんな人生を歩んでいたとしても、選ばれたならそれが運命だ。
 運命。その言葉の重々しさに耐えられない。誰もが憧れる英雄に、ぼくなんかが選ばれてしまうなんて。
 サジッタ、ぼくはどうしたらいいの。
 名前を呼んでも、優しい伯母はもうとなりにいない。喉の奥に言葉だけが貼りついて、焼けたように鈍く痛んだ。

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