駆けよ戦車
第1章 第2節
入舎式
ひとの気配で目を覚ます。
開け放たれた小窓から冷えた風が吹きこんでいた。寒さを感じた者がひとり、またひとりと起きはじめている。
彼らに水筒を手渡しているのは金髪の騎士だ。
(夢、だったのかも)
窓からのぞくおぼろげな雲を見ながら思う。だって今も、夢の中みたいに地に足がつかないままだ。
さんざん泣いたおかげで腫れていそうな目を恐る恐るこすりながら、周りに当たらないように小さく伸びをする。
「まもなく学舎に到着する。寝ている者は起こして、起きた者から支度するように」
短い指示が飛んだ。悠長にしていたら怒られそうな気迫があった。
子どもたちが慌ただしく動き回ると、
「おい、傾いている」
「ん? ああ。でもわかんないぐらいだろ」
「気づく者は不安がるだろう」
「だったらうろつかせないでくれよ。こんなに載せんの初めてなんだから」
指摘された御者台の男は振り返りもせずに頭をかいた。渋い顔になった金髪の騎士が、それ以上言い返さずに戻ってくる。
彼は周囲を見渡してぼくを見つけた。座り込んでいたぼくの前でかがんでくる。
目が合うのが怖くてうつむいてしまう。
「おはよう。気分はどうだ」
「⋯⋯へ、へいき」
「寒くはないか。水は? 腹が空いているのなら備蓄もある」
矢継ぎ早にたずねられて首を横に振った。けれども水筒だけは握らされて、飲みなさいとうながされる。
一口飲むと、喉の痛みがやわらぐのがわかった。自分でも驚くほどほっとする。そっと顔を上げると、彼は眉をひそめた険しい顔でぼくの体を眺めていた。
飲むのをやめるとぼくに視線を合わせてくる。もっと飲むよう言われたが、首を振った。
「ほかに必要なものはあるか」
問いにもう一度首を振って、両手に抱えた水筒を返した。彼はわずかに水筒を揺らしてから、なにかあれば呼ぶようにと言いつけて、ほかの子のほうへ向かっていった。
あらためて見ると、車内にいるのは騎士の二人を合わせても十数人だけれど、皆めかしこんでいて、なかには大きな荷物を抱えた子もいる。穴が空いたシャツにすり切れたズボンだけのみすぼらしい子どもはぼくひとりだ。
なんだか場違いでいたたまれない。下手に動くと周りを汚してしまいそうだし――誰かに目をつけられたらと思うと、怖い。
じっとして、膝を抱えた。車体のかすかなきしみに耳をすませていたら、子どもたちが突然「見えた!」と叫ぶのでびっくりした。
「あれが学舎?」
「大ッきい! うちの麦畑よりずうっと大きいや!」
「あそこへおりるの?」
窓辺へ集まって、つま先立ちで地上を見下ろしている。楽しそうに指をさすのでまた騎士にたしなめられていた。そうこうしているうちに、下へ引っ張られるような感覚が強くなって、とすんと尻を軽く打つ。
窓からはうっそうとした森と、石でできた大きな門が見えていた。
門の前には派手な兵隊帽を被った男が何人か待ち構えている。彼らは合図を受けて、門の横から伸びる城壁の小さな出入口を開いた。そこへ行くよう言われて子どもたちが歩いていく。
立ちつくしていると、御者台に座っていた黒髪の騎士がとなりへやってきた。
「どうした。早く行かねえと閉められんぞ」
彼はかなり背が高く、見下ろすだけで威圧感がある。なにも言えずにじりじりと後ずさっていくと、ふいに背中へなにかがぶつかった。彼がぼくの後ろへと視線を投げる。
見上げれば金髪の騎士の青い瞳とかち合った。
黙って見返すと、わずかに背を折って淡々と告げてくる。
「きみは騎士として選ばれた。もう帰ることはできない。それはわかるか」
ゆっくりとうなずく。彼は言葉を選ぶように息をついて、再度口を開いた。
「なら、行きなさい。すぐに入舎式が始まる。この戦車が一番遅かったからな」
「はあ? しょうがねえだろ。遅く飛べって言ったのおまえだよライトール」
「遅くしろなんて言っていない。慎重に飛べと言った」
目の前で言い争うふたりにぽかんとしていると、彼らはおもむろにこちらを見て押し黙った。
ライトール、と呼ばれた金髪の騎士が「行くんだ」とぼくの背にふれる。
さわられる恐ろしさはずいぶん減った。彼の手に押し出されるようにして、門のほうへと歩いていった。
門をくぐる前に一度だけ振り返ったが、戦車はちょうど飛び立つところで、
三角にとがった見張り台付きの城壁は、石を敷きつめてつくられていて、中に入るとひんやりしている。そろそろと進むといきなり呼び止められてすくみあがった。
洞窟をくり抜いたような小部屋で、兵隊帽を持った男が手招いてくる。
いびつなカウンターの前に立つと、男はぼくを爪先から頭のてっぺんまで眺めて、ふんと赤い鼻を鳴らした。
「腕を出せ」と命令される。吐息からほのかに酒の臭いがただよってきた。
「っ、あ、え、えと」
「腕だよ。ウ、デ。わかんねえのか?」
「え、あ、ああの、あのっ」
苛々されているのが伝わる。体がまた震えだした。
うで、はわかる。わかるけれど、右と左のどちらだろう。間違ったほうを出したら怒られる。どうしよう。わからない。
動けないでいると、突然がしりと腕をつかまれた。焼けた石を握りこむ痛みがよみがえって、とっさに目をつぶる。しかし、想像したような痛みも臭いもやってこなかった。かわりに手首へ冷たいものが押し当てられる。
カチ、という音に目を開ければ、左手に蹄鉄のかたちをした腕輪がついていた。
「ぇ、⋯⋯えっ、これ⋯⋯?」
揺すっても取れない。よく見れば、あの騎士がはめていたものと同じだ。
「なにびびってんだよ。早く行きな、騎士様」
あくび混じりにうながされる。ぼくは何度もうなずいて、めまいを起こしそうになりながら駆け足で奥へ向かった。
うす暗い通路に等間隔で並ぶ太い柱には、国の紋章が縫われた厚い布がかけられている。勇ましく飛ぶ竜と戦車を金糸でかたどった真っ赤なそれは暗がりでもよく見えた。目印にして進んでいけばやがて外廊下へ出る。
「⋯⋯! 騎士様、お急ぎください。もう後にはいらっしゃいませんね」
広大な庭には鎧を着た兵士たちがいて、ぼくを見るなりそう急かした。
うなずきながら庭の中央を見やる。百はくだらない子どもたちが集まっていた。思わず足を止めたくなる。
(⋯⋯だけどもう、帰る場所はないんだ)
思い直して深呼吸をひとつ、彼らの輪の端っこへと駆けよる。すると、ぼくで本当に最後だったらしく「静粛に」という低い声が響いた。
「っう、この音⋯⋯なに?」
「うぇえ、耳が変になりそう! どっから聞こえてんの?」
ふつうの声じゃない。耳の中でごんごんと反響する、こもった音だ。うずくまりたくなったが、他の子に当たってしまうのが嫌で、足を踏ん張って耐える。
正面の演台のそばにある車には竜がつなげられていて、声はそこから響いている気がした。見ていると演台へ男性が上がっていくのに気づく。みなも自然とそちらを向いた。
騎士の正装である白いローブではなく、より豪奢な黄金色の礼装を身につけている。真紅の裏地と下衣が風にひるがえるたび炎のように揺らめいた。
騎士にしては高齢だ。白髪交じりの髪を後ろへなでつけ、切り揃えたひげを手癖のようにさわっている。彼が咳をすると空気がびりびり震えて耳が痛くなった。
「失敬」と彼が挙げた手には腕輪がにぶく光っている。
「諸君、ようこそクリニエール騎馬学舎へ。祝いの言葉の前に、まずはきみたちの
(⋯⋯片蹄者?)
知らない言葉だ。周りの子たちも知らないようだった。ざわめきが大きくなる前に、高齢の騎士が再び話しはじめる。
「片蹄者とはきみたちの左手の鉄輪、すなわち
聞きながら、罪人をつなぐ枷じみた重い鉄輪を見下ろした。
これが、片蹄鉄。
蹄のかたちをしているから完全な輪ではないけれど、
片蹄鉄が示してくれるという。いったいなにを。これからどうすればいいか、ぼくはどうなるのか、こんな鉄の輪が教えてくれるっていうんだろうか。
(――歩むために番うって、誰と?)
もう一度高齢の騎士を見上げる。彼は固くこぶしを握り、片蹄鉄を掲げてみせた。
「さあ、腕を挙げて。高く、もっと高く。これよりきみと運命を共にするただひとりの相手を、片蹄鉄が示すだろう」
恐る恐る、手を挙げていく。
騎士はひとりではなれないなんて知らなかった。ぼくみたいな臆病者は誰にもふさわしくないだろう。もしも相手が示されなかったら?
ここから帰れと言われても、ぼくひとりじゃ無理だ。サジッタにも会えない。そんなのはいやなのに、もしそうなってしまったら。
あまりの恐怖に足ががくがくした。いやだ。お願い。誰か。選んで、選ばれますように。どうか!
祈るように片蹄鉄を見上げた。
すると、差し込む陽で目を覚ますように、うっすらと輝きはじめる。
表面がでこぼこと形を変えていく。なめらかにならされて、縁にはいくつかの出っ張りとくぼみ、それからカットされた鉱石のようなものが浮かび上がってきた。
鉱石の輝きが一段と強くなる。それはなにかを指し示すように、ある一点へ向かってまっすぐに光線を放った。
光は子どもの背中で途切れたけれど、その先に、目指すものがある気がした。
「押さないで。移動は慎重に。光の先だけではなく、前をよく見て。背が低い子もいますからね」
心配そうな呼びかけが響く。子どもたちがいっせいに動きはじめていた。
(うう、人が、多くて⋯⋯ちっとも進めない⋯⋯)
気がつくと周りは片蹄者に会えた子ばかりになっている。いまだに会えていないのはぼくだけなんじゃないだろうか。この先に誰もいなかったらとまた不安になった。
そんな迷いを振り払うように、光はずっとある方向を示しつづけている。
と、話が盛り上がりだした少年たちに横から押され、その弾みで誰かの足につまづいた。
「っ!」
ざりっと擦りむく感触が膝に走る。見れば服が破けて血が出ていた。
これぐらい、少し痛むだけでなんてことはない。そのはずなのに泣きそうになる。歩くのをやめてしまいたくなった。
じわじわにじむ血を押さえる手に、誰かの手が重ねられる。
黒い肌に片蹄鉄が光っている。光はまっすぐに、ぼくの片蹄鉄をさしていた。
「⋯⋯片蹄者」
つぶやく声はぼくのものじゃない。顔を上げると、紫の瞳がまたたいた。
『彼』は、夜に溶けそうな真っ黒い肌に、透きとおるような白い髪をしていた。くすんだ鈍色のピアスやネックレスをたくさんつけている。
見たことがない容姿に加え、彼の彫刻じみた無表情さもあいまって、同じ人間のように思えなかった。
「痛い?」
ぼうっと見ていると、彼が首をかしげてくる。ぼくがいつまでもしゃがみこんでいたからだろう。慌てて立ち上がると、彼のほうが少し背が高かった。
膝はちくちくしたけれど、痛いというほどでもなかったので首を振る。彼は傷口から目を離してぼくを見つめてきた。しっかりと視線が合っているのに、野生動物と見つめ合っているみたいで、あまり怖いという気持ちがわいてこない。
ふしぎな子だと思った。
子どもたちが誰も動かなくなったのを見て取ったのか、演台の騎士がまたせき払いをする。
「改めて、入舎おめでとう、諸君。たった今きみたちは一歩を踏み出した。片蹄鉄をかざし、片蹄者を得、まことの騎士となったのだ。騎士とは、神のしもべである竜の使役を許された唯一の存在にほかならない。なればこそ! その歩様は勇ましく、歩調は並び立つように! さだめの起伏に富むこの道を、」
突風が吹く。はるか彼方から、空を割きそうな甲高い獣のいななきがこだました。
見上げれば、何十もの戦車がこちらへと飛んでくる。白い車体が光を照り返し、竜がその羽根を散らしながら、頭上を嵐のように飛び抜けていく。
「――駆けよ、戦車!」
朗々と演台の騎士が告げた。
ぼくは、夢のような光景にすっかり目を奪われて、戦車のすべてが轟音とともに大地へと降り立つのを、足から伝わってくるその震えを、静かに感じ取っていた。
どこからともなく拍手が響く。まばらだったそれは、皆が打ち鳴らすことで喝采に変わった。
戸惑っていた子どもたちの目に喜びが宿り、口もとには抑えきれない笑みが浮かぶ。片蹄鉄を掲げて雄叫びを上げる子もいた。ぼくは彼らに当たらないよう小さくなったままで、隣の黒い肌の少年もただ立ちつくすだけだった。
歓声が遠い。こんなに人がいるのに、ひとりぼっちみたいだ。
こつりと手の甲が当たる。隣の彼が、ぼくに当たった手を無造作に動かした。
ひとりじゃないと言われたみたいで、逃げ出したい気持ちが少しだけ和らいだ。
やがて、高齢の騎士が片手で合図すると、鳴り響いていた拍手が止む。騎士は固かった表情を崩してぼくらへと語りかけた。
「きみたちの旅路に、幸多からんことを。自己紹介が遅れてしまったが、私はここの学長を務めているハルケンだ。気軽にハルクと呼んでくれ。さっそくきみたちを、これから三年のあいだ共に過ごす班員たちに引き合わせよう。すべて先達である四年生が班長を預かる部隊だ。彼らがきみたちの模範となるだろう。よく従い、よく学ぶように! さあ、片蹄鉄を見たまえ」
言葉につづいて、先ほどと同じように片蹄鉄に埋めこまれた鉱石が光った。しかし、今度は黒い肌の彼――片蹄者をささずに、人だかりの向こうを示している。
あっちになにかあるんだ。そう思ったのはぼくだけではなくて、周りもいっせいに歩きだした。ひとの波に負けてずるずる押し流されそうになったところで、黒い手がにゅっと伸びてくる。
ぼくの腕を強くつかむ。「こっち」というささやきと一緒に勢いよく引かれて、あっけなく人ごみを抜けてしまった。
「あっ、あ、あ、」
お礼が言いたい。言わなくちゃ。なのに、つっかえてうまく出ない。顔が焼けたみたいに熱くなった。
彼はぼくをちらりとだけ見て、表情も変えずに先を行く。
たどり着いた光の先には二人組の騎士が待っていた。そのうちひとりと目が合う。
「おまえたちもこちらの班か⋯⋯ん? きみは、⋯⋯そのけがは」
ライトールだ。隣にいるのはあの黒髪の騎士だった。
彼らはぼくを見るなりおどろいて、ライトールのほうは駆けよってくる。
「転んだのか」
「あ、う」
「痛いか? 服が破れてしまったのか。医務室に、いや⋯⋯レフテッド!」
鋭く呼ばれて、黒髪の騎士が「へいへい」と頭をかいた。気のない態度にライトールの眉がつり上がる。
「わたしは彼を医務室へ連れていく。班員が集まったら案内を頼めるか」
「まあ、おまえが行くならしなきゃなんないな。いいよ」
「なんだその言いかたは。おまえも副班長だということを忘れていないだろうな。いい加減その起き抜けのような顔をやめろ、新入生の前なんだぞ」
「説教はやめろよ、ほとんど寝てないんだから。早く行ってやんな」
レフテッドが耳に指を突っこんでみせる。ライトールはまだ言いたげだったが、ため息をついてぼくの肩を抱いた。
こちらへ、と誘導しようとして、ぼくが握ったままだった手の先を見る。黒い肌の少年はぼくにばかり顔を向けていた。
「きみの片蹄者か」
たずねられてうなずく。すると、ライトールは彼のことも一緒に連れていってくれた。
兵士に合図をしてから校舎へと入っていく。学長の声が途切れ途切れになり、やがて聞こえなくなった。石造りの長い廊下は人の気配がなく、何度か曲がったところにある部屋の前に立つ。
扉には『医務室』という古びた木札が取りつけてあった。
ライトールがすうっと息を吸いこむ。真剣な顔で扉を叩いた。返事はない。
「不在か。かまわない、入ろう」
迷わず戸が開けられる。つんとした薬のにおいと、ほのかな生臭さが鼻をついた。
両脇には、天井まで届きそうな薬棚がそびえたっている。中には乾いた植物の根や葉が入った瓶がぎっしりと詰まっていた。
隅っこにはかたちばかりの机が置かれている。書物と雑貨が山と積まれているおかげで一見それとわからないほどだ。しかしライトールはすぐにそちらへ進み、壁にかけられていた丸椅子を置いて「座って」とうながした。
ぼくが腰かけると、彼は並べられた見慣れない瓶のうち、いくつかを持ち上げて剥げかけのラベルをにらんだ。どの瓶も一度開けて中身を確かめている。
ひととおりの道具を机に用意すると、ぼくのズボンをゆっくりめくり上げた。
「消毒する。痛むぞ」
手早く傷口を洗い、小瓶を手に確認してくる。ぼくがうなずくと、濃い茶色の液体が浴びせられた。
びりっと痺れるような痛みが走る。
「痛い」
そう言ったのはとなりにいた片蹄者で、ぼくは彼とまだ手をつないでいたことに気づいた。
「痛い⋯⋯の?」
「ああ。片蹄者になると、互いの痛みを感じ取れるようになるからな。きみたちは今肌を合わせているから余計だろう」
問いにはライトールが答えた。それを聞いて、慌てて手を離す。すると突然膝の痛みが強くなった。
ぼくが目を白黒させているのを見てか、包帯を広げた彼がつづける。
「伝えるだけじゃなくて、分け合うんだ。きみがあまり痛みを感じなかったのなら、彼が半分受け持っていたからだ」
言いながら、ライトールは物音がしない廊下をしきりに気にした。
包帯を巻き終えて、曲げ伸ばしができるか試す。使った器具を戻しながら「きみたちは相性がいいんだろうな」とつぶやくように言った。
「あとは服⋯⋯は寮に支給があるか。備品庫に余りがあるかもしれないが⋯⋯いや」
考えるように腕を組んでぼくたちを見おろす。数瞬ためらってから奥を指した。
「ベッドで休んでいなさい。二人一緒に。もし誰か、⋯⋯医務官のかたが戻ってきたら、着替えを四年生のライトールが取りに行っていると、すぐ戻ってくると伝えるように。できるか」
「う、うん」
「手当てはもう受けたと言いなさい。すぐ戻るから」
そう言い残して、彼は出入口の戸を閉めた。走る足音があっという間に遠ざかっていく。
静かになった部屋でぼくはそっと立ち上がった。
ライトールが指した先にはついたてがあり、その奥にはしわだらけのかび臭いベッドが四つ並んでいた。いずれもシーツ全体が淡く黄ばみ、ところどころ黒ずんでいる。うちひとつに腰かけると片蹄者もそばへすわってきた。
感情の読めない紫の目がじっとぼくを映している。怖くはなかったが、少しいたたまれなくて話題を探した。そういえば、彼の名前をまだ聞いていない。
「ぼく、ハーヴェイン。きみの名前は?」
たずねると、彼はまたたいて、ぼうっと遠くを見るような目つきになった。
「名前はカナン⋯⋯カナンディア」
「⋯⋯ええと、どっち?」
「書いてあったのはカナンディア。呼ばれたのはカナン」
よくわからない答えだ。ぼくが「書いてあった?」とオウム返しに聞くと、彼は肩にかけていた袋から古めかしい本を取り出して、ももの上へ置いた。
その裏表紙にはたしかに『カナン ディア』と刻まれている。しかし、雨風にさらされたのか大部分が剥げ落ちていて、それだけがかろうじて残ったようにも見えた。
「これがきみの名前?」
「こう呼ぶってじいさんが決めた」
「そう⋯⋯。ほかには、なにも書いてなかったの?」
「書いてある」
彼はサビが目立つ留め金を外し、指を差し入れて頁をめくった。やけに分厚い本だと思ったがこれはどうやら詩だ。つづられた文章はどれも短く、細かな挿絵が添えられている。
こんな立派なものを持ち歩けるなんて、どこか名のある家の子息なのだろうか。
失礼にならない程度に彼のようすをうかがった。
ほつれが目立つ麻のシャツに、ひび割れた革のチャップスとブーツ。肩より少し長い白髪を編みこんで前に垂らしている。少なくとも裕福な生まれではなさそうに見えた。
彼のこれまでの暮らしが気になる。そう思うのに、興味だけでたずねるのは良くないとも思った。誰にだって知られたくないことはある。
「えっと⋯⋯本を見せてくれてありがとう、カナン。それから、ごめんね。痛い思いさせちゃって」
「うん。ふしぎだ。おまえのけがなのに痛い」
「本当にごめんなさい」
謝るが、彼は怒っているように見えなかった。むしろぼくの膝に巻かれた包帯を気にしていて、ついにもう一度ぼくの手にふれてくる。
「いっ、い、痛いよ?」
「ほんとだ」
初めての体験のように目を丸くする。さっき同じ思いをしたばかりのはずなのに、とおかしくなった。
「痛いならさわらなかったらいいのに」
ぼくはそう言いながら、温かな手のひらが重なったままでいるのを感じていた。
彼にふれられると、たしかに痛みが遠くなる。
それは、彼がふしぎだと言うぐらいに、ぼくにとってもふしぎだった。
人にさわられるのは恐ろしいことだ。たいてい、体をむしばむ痛みがもっとひどくなるから。
なのにカナンの手は、お日さまに当てられてすっかり温もった野原みたいに気持ちがいい。払いのけることもできたのにそうしなかったのは、熱を分かち合う心地よさにほっとして、離れがたくなったからだった。
カナンはぼくから伝わってくる感覚に集中しているようで、なにか話そうとはしない。反対にぼくもカナンの感覚を追えないか試してみた。しかし、分厚い布に覆われたような気分になるだけで、はっきりとはわからなかった。
「きみのはあまり伝わってこないね」
「おれはよくわからねえから」
「わからない?」
カナンはうなずいて「痛いのとか。『悲しい』とか」とつづけた。難しい本の目次を読み上げるような言い方だった。
「それって、感じたことがないってこと?」
「けがしても気づかねえ。じいさんが死ぬってわかったとき、どいつも『つらいね』『悲しいね』って言った。そう思うんだって。でも、おれはなんも。おまえ、カゾクが死んだら『悲しい』?」
「⋯⋯おじいさん、死んじゃったの?」
「知らない。見てねえし」
彼は明日の天気をたずねられたみたいに軽く答えた。
家族の――父や母、祖父母や兄弟の生き死にと、天気の良し悪しが変わらないというのは、冷たいだろうか。あまりにも恩知らずな、突き放した考えだろうか。
ぼくも似たようなものだ。自嘲しそうになって、口もとを引き締めた。
「平気だよ。ぼくも、家族が死んでも、あんまり悲しくない。⋯⋯おんなじだね」
彼は宝石のような紫の瞳をかすかに見開いた。
そして、ぼくは初めて、彼の横顔に表情らしきものを見た。孤独な夜の森に誰かが灯す焚火を見たような、焦がれていたものをようやく見つけたような顔だった。
目の前の少年が生きた人間なのだと、ようやく感じ取れた気がした。
その時、唐突に部屋のドアが開かれる。薄汚れたローブを身につけた背の低い男が姿を現した。彼はぼくたちを見るなり片眉をつりあげて、いやらしく笑った。
「どうした新入生。さっそくけがをしたのか。よしよし、わたしが診てやろう」
「え、や、」
「手当て終わってる。四年のライトールがした。着替えも持ってくるって」
いやな笑みを張りつけたまま近づいてくる男が怖い。思わず腰を浮かせたぼくの横で、カナンはたんたんと言われた通りに説明した。それを聞いた男はずんぐりとした鼻の上に深くしわをよせる。
「わたしは医務官だ。学生じゃあない」
不快そうな声だったが、薄ら笑いは変わらない。男がぼくの足にふれると一気に鳥肌が立った。
まるで、ねばつく毒虫が肌という肌を埋めつくしたようだ。ふれられたところから、ぞわぞわと、じくじくと、おぞましい感覚がのぼってくる。傷口の痛みは何倍もひどくなって、細く鋭い針で皮ふからその奥をグリグリとほじくられているみたいだった。
からだがひとりでに逃げる、のを取り押さえられて、舐めるようになでまわされる。
(痛い⋯⋯痛い! 足が、焼けるみたいに熱いっ!!)
「や、ゃ⋯⋯やめっ」
「怖いか。だが、わかるね。痛みも、恐怖も、治るためには必要なことだ。がまんが肝心なんだ。そうだろう」
男は低い笑い声をあげながら包帯へ手をかけた。布越しでもこの痛みだ。直接ふれられたらどれほど痛いのだろう。想像するだけでこんなにも恐ろしいのに、のどが引きつって声が出ない。
震えて歯の根ががちがち鳴る。どうしようもなくて目をつぶった。今にも襲ってくるだろう痛みに、耐えるために。
しかし、やってきたのはパシッという軽い音だった。
そろそろと目を開ける。
カナンが男の腕をはじいていた。無表情なまま、ほどけかけた包帯に手をかざして覆い隠す。足全体に広がっていた痛みが鈍くなっていくのを感じた。
「痛えよ。やめろ」
「――おまえ」
男の額に青すじが浮かび、血走った目がカナンをにらみつける。
ひ、と息をのんだ。とても止められないと思った。
今にも爆発しそうな雰囲気をまとった男と、それを静かに見つめ返すカナン。あいだには、へたりこむぼく。誰も動かない一瞬が過ぎ去ってしまう前に、遠くから足音が近づいてきた。
バタバタという駆け足は部屋の入口で止まって、ノックもなく扉が開く。息を切らして駆けこんできたのはライトールだった。
彼は男を見るなり目をみはって「チッタ教官」と固い声で呼びかける。
「申し訳ありません。医務室をかってにお借りして。すぐに出ていきますから」
「ライトォール。この新入生の手当てはきみが?」
ねちっこい猫なで声にライトールがうなずくと「では、きみが彼らの班長か」とチッタが確認した。ライトールは目をそらしながら近づいてくる。
「ええ。ちょっと、入舎式でけがを。でもたいした傷ではなかったんです。血がついたので着替えだけでもと思って。それだけです」
言いながら、ライトールはチッタとぼくらのあいだにからだを割り込ませた。
後ろ手に着替えを差しだされる。カナンの腕を借りるようにして、まだ震える足でどうにか立ち上がった。急いでズボンを脱ぎはじめる。
「けがをしたのなら、医務官が診るべきだとは思わないか。きみはそんなに手当てに自信があるのかね」
「本当に、たいした傷じゃないんです。お手をわずらわせるようなものじゃありません。それに――それに、まだ学舎の案内が終わっていないので。終わってからまだ痛むようなら改めてうかがいま、っ」
ふいに早口が途切れた。ちらりと後ろを見ると、チッタの手が彼の首すじをなでている。
あの不快感に襲われているのかと思うと、さわられてもいないのに肌がぞわぞわした。
ライトォール、という甘ったるい声が耳にまとわりつく。
「きみはけがはしていないようだ。が――また少し、精神が不安定になっているね。落ちつくまで、前のように通ってこさせたほうがいいかね」
「⋯⋯へ、――へ、平気です。なにも⋯⋯お気づかい、いただかなくてけっこうです」
いつも冷静なライトールの声が上ずっていた。着替え終わったことを知らせようと服のすそを引くと、彼はぎくしゃくとこちらを向く。
ランプの逆光のなかで、ひとめでわかるほど顔がこわばっていた。
ぼくとカナンを引きよせて、ライトールは出入口へと向かおうとする。その背にチッタが笑いかけた。
「いつでも来なさい。歓迎しよう」
「⋯⋯、失礼します」
大きな音を立てて扉が閉められる。ライトールがかなり急ぎ足に歩くので転びそうになった。それに気づいたのか、彼は少し進んだところで足を止めて「すまない」とばつが悪そうに詫びてくる。
「けがしているのに無茶をさせた。これから案内に戻るが、痛くなったら言いなさい。⋯⋯手当てはわたしがするから」
「は、は、⋯⋯はい。ありがとう、ございます」
「班員と合流しよう。おそらくまだ教室棟だ」
ライトールが片蹄鉄に指をすべらせる。すると、うす青く光る図面のようなものが空中へと浮かび上がった。そこには点滅する小さな印があり、ここがわたしたち、と教えてくれる。
おそらくはこの学舎の地図なのだろう。しかしそれよりも、ライトールの横顔から緊張が取れたのにほっとした。
歩き出そうとしたところで、前からかっちりと正装を着こんだ男が歩いてくる。灰みがかった長い髪を後ろで結び、どこかさびしげに見えるアイスグレーの瞳をしていた。
彼はぼくらそれぞれを見て、心配そうに眉をよせる。
「けがをした子が出たって聞いたんだけれど、彼かい」
「はい。ご心配くださりありがとうございます、ブティスト教官」
「すまないね。あのやり方はよくないって毎年申し述べているんだけれど、なかなか取り合ってもらえないんだ。歩けるようでよかった」
おだやかに語りかけてくる。聞いたことのある声だった。思い返せば、入舎式で片蹄者を探すときに聞こえた呼びかけの主は彼のようだ。先ほどのチッタとは違い、ライトールも笑顔でこたえている。
やさしげな瞳にどきどきしながら視線を返すと、ふっとほほ笑まれた。
「頼りになる先輩がついてくれて、安心だね」
「そんな、新入生にそういうことを言うのはやめてください」
「どうして。謙遜しなくてもいいのにね。⋯⋯きみたちに講義で会う日を楽しみにしていますよ。では、また」
ていねいに一礼して、彼は横を通りすぎていった。はためいたすそから、深い森に広がる澄んだ湖のようないい匂いがした。
見上げれば、ライトールはどこか困ったようにくちびるを噛んでいる。けれども彼が行ってしまうと、小さな声で「ブティスト教官は座学の多くを担当されている。きみたちもよく会うことになるだろう。いいひとだよ」とはにかんでくれた。
*
それからぼくたちは日暮れまで学舎中を見てまわり、食堂で夕食をとったのちに、同じ建物の中にある寮室へと案内された。
寮の名前はメルカバルという。古くからある寮らしく、建物の壁はあちこちひびわれていて、歩くだけで床がぎいぎいきしんだ。さびた燭台が並ぶ長細い通路には班ごとに部屋が用意されている。ぼくとカナンは八班だから、扉に八と彫られた部屋だ。
中に入ると、泥を落とすマットの先にふたつ部屋があった。右側の扉は班長たちの部屋らしい。奥は扉の代わりに薄い垂れ布がかかっていて、新入生はそこで眠るようだ。
ぼくたちの部屋には二段ベッドが出入口から見て縦に四つ置かれていて、それに合わせたクロゼットも四つあった。仕切りを使ってベッド二台ごとに空間が分けられている。ぼくとカナンは入ってすぐ右手のベッドになった。ボタンを使ったコイントスに負けてしまったのだ。
「あーあ。ババ引いたな。わるい、ガロ。俺、ほんとに運がないんだよ」
「しょうがないよ、トロット。でも嫌だよね。通路から丸見えだしさ」
コイントスで最下位の場所だった向かいのベッドへ腰かけ、残念そうに廊下を眺めているのは、茶髪の背が高い青年と亜麻色の髪をした少年だ。彼らも片蹄者同士だった。茶髪の方はトロッタント、亜麻色の髪の方はガロフィリスという。
こうして並ぶとふたりとも華がある見た目をしている。トロッタントは背が高くて体格もいいし、ガロフィリスはとても可愛らしい顔立ちの子だった。
ぼくとカナンが立ちつくしたままでいると、彼らはもう一度コイントスでベッドの上下を決めた。勝ったのはガロフィリスで、嬉しそうにはしごで登っていく。そしてぼくたちを見下ろしてクスッと笑った。
「ねーえ、どっちで寝るか決めないの?」
「え⋯⋯っと、うん⋯⋯どうしよう⋯⋯」
「早くしねえと火が消されるぞ。そら、貸してやるから」
ボタンが投げ渡される。受け取りはしたものの、ぼくはなにも言えずにカナンを見つめた。カナンは無反応にどこかを見ている。聞こえてすらいなさそうだ。
トロッタントが立ち上がり、カナンの肩を軽く叩いた。
「おい、無視してやるなよ、お前⋯⋯あー、名前なんてったっけ?」
「ない」
「は? ナイ?」
「取りに行く」
それだけ言うと、カナンは出ていこうとする。その肩をつかまえてトロッタントが眉をしかめた。
「取りに? どこへ? っていうか、聞いてたか? もう消灯だって。外出禁止だろ」
「⋯⋯、ない、持ってない。だから行く」
「いや、あのなあ」
トロッタントが困ったように頭をかいた。彼につかまえられたカナンは放してほしそうにしている。
どうしようと周りを見渡すと、カナンの手に光る揃いの片蹄鉄が目に入った。
医務室で彼が言っていたことを思い出す。
『おれはよくわからねえから。痛いのとか』
(⋯⋯もしかして、トロッタントの声がちゃんと聞こえてない⋯⋯のかな?)
恐る恐る、拘束を振り払おうとするカナンへふれてみる。とたんに全身の感覚が鈍くなった。
彼はぱちりとまばたいて、まっすぐぼくを視界に入れてくれる。
「カナン、教えて。なにを探したいの?」
「⋯⋯本」
「本⋯⋯あの詩の。あ、医務室に置いてきちゃったんだね?」
カナンがうなずく。トロッタントはカナンをつかんだまま、器用に肩をすくめてみせた。
「なんだ、探す場所の見当はついてるのか。なら、明日でいいだろ?」
「今行く」
「カナン、でも⋯⋯」
「どうしても、なら消灯してからがいい。今じゃバレちゃうもの。ねえ、カナン。火が消えて、みんなが寝たら、そうっと行こうよ」
鈴のような軽やかさでガロフィリスがささやく。ルールを破る危険な誘いなのに、幼い子どもへ語りかけるみたいなやさしい響きで、そのアンバランスさにくらくらした。
カナンはじっと見上げてからぼくに視線を移してくる。
意見を求められているように思ったので、緊張しながら口を開いた。
「そ、そ、そのほうがいい⋯⋯と、思うよ。ぼくが探すとしたら、そうするよ」
「⋯⋯。わかった」
納得してくれたらしい。ぼくとトロッタントが手を放すと、すぐにカナンは下のベッドにもぐりこんだ。
残されたトロッタントはため息をつき、疲れた顔でガロフィリスをにらむ。
「いや、ルームメイトが初日に規則破りって、大丈夫かよ?」
「いいじゃない。夜に人目を忍んで、なんて、なんだか宝探しみたいで」
「宝探しって。⋯⋯ったく、ツイてないんだよなあ、俺は」
からから笑う自身の片蹄者に、トロッタントはもうなにも言い返さず、恨めしげに独り言をこぼして寝具へ横たわった。
ほとんど同じタイミングで班長室の扉が開く。「点呼ぉ」という間延びした声が聞こえた。見ればレフテッドで、彼は気だるげに首をひねりながら、ぼくたちの部屋へと歩いてくる。
そのまま、おっくうそうに同じ班のメンバーを読み上げた。
「トロッタント」「ん、いるよ」
「ガロフィリス」「ここだよ副班長」
「ミッテル」「あー⋯⋯いるったら!」
「シュリット」「そいつもいる。もう寝てるけどな!」
「ウォルク」「ここにおりますよ」
「キャンター」「⋯⋯います」
「ハーヴェイン」「っは、は、ははいっ」
「カナンディア」「⋯⋯⋯⋯」
壁にもたれて目を閉じていたレフテッドが、のろのろと目を開く。そして横になっているカナンのそばへ来て、ぺしりと白髪の頭を叩いた。
「いるならいるって言え。カナンディア?」
「⋯⋯いる」
「ならよし。消灯するぞ。明日も早いんだ、さっさと寝ろよ。いい夢を」
彼が言い終わる前に、ふっと明かりが消えた。
真っ暗だ。ぼくは慌てて上のベッドへ登ろうとして、カナンに服を引っ張られ、そのまま同じベッドに倒れこんだ。
レフテッドが壁に身を預けながらずるずると戻っていく。扉を閉めるのが聞こえた。班室の外からもバタン、バタンと閉まる音が聞こえてきて、やがて静かになった。
誰も動かない。すぐそばにはカナンがいた。ぴったりと触れ合っていた。
夜のとばりをはね返して光るほの白い髪。感情を宿さない紫の瞳は、夜更けの凪いだ湖みたいだ。月の光に照らされた透明な
まん丸なかたちをした向こうのぼくが問いかけてきた。
『まさか、一緒に行くつもりか。わざわざ叱られて、出来損ないだってののしられたいのか? あの頃みたいに』
(それは、それはいやだ! ⋯⋯でもカナンはぼくを助けてくれた。痛い、やめろって、言ってくれたんだ⋯⋯)
『へえ? それで、おまえが行ってなんになる。“役立たずのろくでなし”になにができる。ここで寝ていろよ。なあ、そうしろったら』
向こうの『ぼく』が言うことはもっともだ。ぼくはうずくまって泣いているしかできない、どうしようもないやつだ。けれど、
(カナンは、どう思ってるんだろう)
そう、言葉にできないまま、ただ見つめ合いながら、ぼくたちは黙ってそこにいた。部屋にいびきがこだまするようになっても、まだ動かなかった。
闇の中、すっかり冴えた視界の中心で、カナンが首をかしげる。「行かないの」と聞きたいんだとわかってどきりとした。
「⋯⋯本当に行くの?」
「行く」
「⋯⋯ぼ、ぼ、ぼくは⋯⋯いっ、一緒に、いたほうがいい?」
振りしぼるように声を出す。カナンは同じようにゆっくりと首をかしげた。
言っていることの意味がわからないと言うように。ぼくが一緒に来ると、初めから信じていたみたいに。
その仕草に、ほっとした。もう、カナンの瞳から、ぼくの影は消え失せていた。
「なんでもないよ。行こう、カナン。ぼくも行くよ」
そっとからだを起こす。カナンと一緒に、ベッドからそろそろと立ち上がる。
すると、ガロフィリスも降りてくるのが見えた。
「え、っ、が、がが、ガロフィリスもっ?」
「ガロって呼んでほしいな」
「うぇ、ででも、みっ、見つかったら」
「頑張ろうね。バレないように」
しとやかなお姫様みたいな見た目なのに、ルール違反はへっちゃらなのだろうか。ぼくはしげしげとガロを見たが、彼は親しげにウィンクを返して、堂に入ったようすで忍び足のやりかたを教えてくれた。
ぼくらが今度こそ出ていこうとしたところで「待てよ!」と吐息だけの叫び声が聞こえる。
「俺も行くよ。お前らだけで行かせて、なんかあったらどうすんだよ!」
トロッタントが、つま先立ちでタタタタと駆けてきた。全員で廊下に出てから扉を慎重に閉める。
真っ暗な廊下に四人で降り立って、ぼくらは顔を見合わせた。
最初に口を開き、ため息をついたのはトロッタントだった。
「もう、バカども。すっ転んで骨折っても知らないからな」
「⋯⋯来る?」
そう今更な確認をするのはカナンで、トロッタントは苦笑した。それから渋い顔になる。
「バーカ! 俺がいなくてどうすんだ。ウロウロ歩き回って、大けがして泣きべそかく気か? ほっとけねえっての」
彼はそう言ってカナンの額を小突いた。ぼくは彼の、小さいながらよく通る声に誰かが起きてこないか不安だった。
「だ、だ、大丈夫⋯⋯だよ。すぐ見つけて戻ってくるから。と、とろ、トロッタントは、寝てても⋯⋯」
「言いにくいんだろ? トロットでいい。ここまで来ちまったら一緒だ。医務室に行くんだろ、行こうぜ⋯⋯足もと気をつけろよ」
それだけ言うと、床板をきしませないよう廊下の端をのろのろと歩いていく。
こうして、ぼくたち四人は夜の学舎へと繰り出すことになった。