駆けよ戦車

第1章 第3節
夜の学舎
傾向:暴力/暴言/小スカ

 たどりついた医務室は鍵が閉まっていた。よく考えれば当たり前のことだ。薬なんて貴重なもの、鍵もかけずに置いておくはずがない。それよりも、
「ふうん、鍵? いいよ。周り見張っててくれる?」
とだけ言って、ふところから取りだした小さな道具であっさりと開けてしまったガロの手際のよさに、ぼくたちは開いた口がふさがらなかった。
「なんなんだよお前、まさか本当に宝探し屋トレジャーハンター?」
「そんないいのじゃないよ。ただの趣味みたいなもの」
「いやいや、趣味って、」
 食い下がりかけたトロットは、室内に入ったとたんに驚きの表情で薬棚を見つめた。そして考えこむようにあごに手を当てる。
「へえー⋯⋯こいつはすごい」
「トロット、なにがすごいの?」
「ん? ああ⋯⋯ほら、これも、これも、それからこれも。全部クリニエールには生えない薬草だ。これだけの薬をこの量、しかもわざわざガラス瓶で保管してる。金かけてんなあって」
「この干からびた草が、高いんだ?」
「価値がわかるやつにとってはな」
 トロットとガロがなにやら話しているのを背に、ぼくたちは目当てのものを取りについたての奥へと向かった。
 しかし、天井からベッドの下までくまなく探したがどこにもない。見つからなかったことを告げると、トロットは眉間にしわをよせた。
「どうする。もうアテはないんだろ?」
「うん⋯⋯誰が持っていったかもわからないし」
「いや、この部屋にあるもの、誰かが勝手に持っていくかな。持っていくとしたら部屋の主――医務官のかたじゃない?」
 医務官、という響きにびくりとした。ここの主はチッタだ。
 その名前を思い浮かべただけで、刺すような痛みと、いやらしい笑みがよみがえってくる。首を振って追い払おうとしているうちに、トロットが話をつづけた。
「じゃあ研究棟か。教官はみんな部屋もらってるって聞いたしな。ただ、さすがに忍びこむのはまずくないか」
「今晩はみんな疲れて寝てるよ。副班長たちみたいにね。行くなら今じゃないかな」
「う、ぁ、や、で、でも、でもっ⋯⋯」
「なんだよ。ダメなのか? どうすんだカナン?」
 ぼくがうまくしゃべれないでいると、カナンに話が振られた。
 すると、それまで人形のように静かだったカナンが、顔を上げてはっきりと言う。
「行く」
「⋯⋯ったく、わかったよ。まあどこもかしこも静かなもんだ。見張り番以外はぐっすりだろ」
「研究棟って、なにがあるんだろうね。戦利品の兜とか飾ってあったり?」
 さあな、と手を振ってトロットが扉へ向かう。その背をガロが追いかけていく。
 動こうとした自分の両足が石みたいに重く感じた。
 またあの男に会うなんて。規則を破っているところを見られたら、なにをされるかわからない。ぼくだけでなくほかのみんなもだ。
 暗い想像に膝の傷がずきずきと痛みだした。手を握ってくれていたカナンがぼくの足を見下ろしながら首をかしげる。きっと痛いのだろう。「ごめんね」と言いたくなった。
(――でも、チッタのところへ行くと決めたのはカナンだ)
 だからこの痛みの十分の一ぐらいはカナンに伝わったらいい。そんなことを思って、それから、つまらないことを願う自分の性格に嫌気がさした。
 ぎゅっとくちびるを噛みしめる。ふたりに続いてぼくたちも外へと向かった。
 棟と棟のあいだの渡り廊下を壁沿いに進んで、ようやく研究棟が見えてきたか、というところでガロがぼくらを呼び止める。
 見れば森の奥から薄明かりが近づいてきていた。しばらく眺めていると、何人かが連れ立って歩いているのがわかる。
「なんだろうね。なにか運んでる」
「あれ、動いてないか? ⋯⋯なんだ? 生きもの?」
 言うとおり、先頭を行く背の低い男以外は、数人がかりでなにかを運んでいる。それはずだ袋の中でしきりに身じろぎをしていた。まるで、自分を縛るものから逃れようとするかのように。
 広い外廊下を冷たい風が吹き抜ける。先頭を行く男の顔が、手に持つたいまつであかあかと照らされた。それに息をのむ。
「あ、あ、あの人だ。あの人が、医務官。チッタ教官⋯⋯っ」
「へえ? あのハゲ頭のちっさいおっさんが」
「残念、まだ起きてたなんてねえ。こんな夜中までいったいなにを、」
「――っだ、だ、だずげでええぇぇぇ!! ぁああ゛だれかぁッッ!! だれか、だずけでぐれぇぇええ゛えぇッ!!!」
「っ!?」
 ガロの声に被さった、耳をつんざくような悲鳴。静かな夜にまったく似つかわしくない恐怖と絶望に満ちた叫びに、ぼくたち四人はすくみあがった。
 ずた袋の口が破れ、中にいたものが顔を出す。
 それは人間だった。若い、ぼくらより少し年上ぐらいの、子どもだった。
「い゛や゛だあ゛あ゛ぁぁあ゛っっ! もう、もう゛嫌だあ゛ぁッ!!」
「真夜中なのに行儀が悪いな。いけない子だ。罰を増やさねばならん」
「ゆ゛る゛じでっ! ゆ゛る゛じでぐだざいっ! どぉか、ヂッダざま゛ッ!!」
「許すもなにもない。きみは、しなければならないことをするんだ。それがここのルールだ⋯⋯そうだろう?」
 ずた袋の少年が断末魔のような絶叫とともに激しく抵抗する。支えきれなくなった男たちの手からすべり落ちて、地面に叩きつけられた。
 骨のひとつやふたつ折れていそうだ。なのに、彼は解放されたと同時に立ち上がり、足を引きずりながら走ってくる。こちらへと。ぼくたち四人のいるほうへと。
 彼のまとう、ところどころ黒ずみ、破れ、汚れきったぼろぼろの服が、支給される騎士の普段着だとわかるのにそう時間はかからなかった。
「だ、だず、だずげでっ!! だずげで、おね゛が、だずげでえ゛え゛ぇぇ!」
「⋯⋯っ! まずい、逃げ⋯⋯」
 トロットが言いかけたが、もう遅かった。
 チッタと目が合う。そのどろりとした黒色の瞳が、驚きと喜び、そして想像しえないなんらかの興奮にゆがむのを、はっきりと見てしまった。
 ぼくはもう、動けなかった。
 チッタが連れていた男たちが手慣れた動きでぼくたちをとらえる。トロットは後ろ手に縛られて踏みつけられまでした。
 考えるかぎり最悪な状況で、いつの間にかガロがいなくなっていたのだけが幸いだった。
「ルール違反者がいち、に、さん。今夜は忙しくなりそうだ。連れていけ」
 チッタがひどく嬉しそうに指をさして数える。逃げだそうとした男は口枷として汚れた布の塊を噛まされ、同じものをぼくたちもつけさせられた。
 舌の奥まで押し込まれてえずきそうになる。しかしもとからこの布には、酸っぱさと苦みが混ざった、吐物の味が染みついていた。


 チッタの部屋は棟の一階にある。というよりも、一階すべてがチッタの研究室のようだった。
 ぼくたちは冷えた床に尻をつかされ、ずた袋の少年が地下へと連れていかれるのをうつろな目で眺めていた。
 チッタは下に降りていく男たちになにかをささやいて「任せた」と告げてからこちらへとやってくる。
「さて⋯⋯きみたちは昼間も会ったな。けがの具合はどうだね。やはり、あの班長の手当てでは不満だったかね?」
 こつ、こつ、という靴音を響かせながら近づいてきたチッタは、よどんだ笑みを浮かべながらぼくとカナンに目配せをした。
 だが、口枷をされている以上なにも答えられない。それを気にも留めず、彼はそのままぼくたちの後ろに回りこんだ。
 チッタの顔が、動きが見えなくなる。それだけで肌があわ立つほど恐ろしかった。
 とても振り返ることができない。
「茶髪のきみは同じ班かね? けしからんな。入舎早々、三人も規則を破って。重罪だぞ。とても重い⋯⋯重い罪には、重い罰が必要だ。もちろん、そうだろう?」
 体がかってに震えた。今この瞬間にもさわられるんじゃないか、あの痛みが噴きあがってくるんじゃないかと思うと、ちかちかとめまいがした。
「では諸君、重い罰とは⋯⋯罰とはなんだ? 罰というのは、苦痛だ。二度と罪を犯せないほど、罪を犯すなどということは想像もできないまでに、心と体を、魂を作り変える。それが罰だ。わかるね。罰というのは、苦しくなくてはならない。痛みに悶え、泣きわめき、くそと小便を漏らし、泡を噴いて許しを請わねばならない。それに耐えて、耐えて、耐えて耐えて耐えつづけて、ようやく人は変わることができるんだ」
「んぐっ、ふぐぐ⋯⋯んんぐぅっ」
 狂気としか思えない陶酔した告白に、トロットは口枷の奥で反論らしきものを上げた。
 チッタは彼の後ろまで歩いていき、その肩から鎖骨、そして突き出た喉仏にまでべったりと手をかけた。なぞるように沿わせて、口枷を愛おしそうになでる。
 トロットがさあっと青ざめた。しかし、口から布が取り払われると、勢いづけるように空咳をしてから声を上げる。
「罰だって? そりゃ、罰は受けるよ。でもおかしいぞ。あの袋のやつはなんなんだよ。ひどいザマだった! 棒キレみたいに痩せてて、肌の色も悪くて、おまけに不潔で。あんたがあんなふうにしたってんなら、罰を受けるのはあんたのほうだろ!」
 チッタが片眉をつり上げる。くっく、と笑い、ぼくたちの正面へとやってきた。
 ゆったりと腕を組み、珍獣の品定めをするようにトロットを眺める。
「あれは、騎士にふさわしくない者だ。あれの心と体を変えるのが医務官であるわたしの役目だ。だから罰を与えつづける。何度も、何度でもだ。その果てに変わるのか、変わらないのかは、あれ自身の問題だ」
 チッタが地下への階段を指し示した。
 と、同時に――地の底から、先ほどの悲鳴とは比べものにならない、天まで裂きそうな絶叫が、わんわんと反響して聞こえてきた。
 繰り返される金切り声。声が枯れ、なにを叫んでいるのかすらわからなくなっても止まない。ふつりと途切れたかと思うと、いっそう大きく響く。
 下でなにが行われているのかを教えてくれるのは、チッタのゆがんだ笑みだけだった。
 「いかれてる」とトロットがつぶやく。「そうかね」とチッタは返した。そして、壁にかけられた数多の拷問器具――そうとしか思えないまがまがしい形状の道具を、楽しそうに手に取りはじめた。
「さあ、新入生諸君。きみたちの未熟な魂を打ち震わせるのはどれだ? きみたちを生まれ変わらせてくれる魔法の道具アイテムは⋯⋯」
「夜分に無礼をお詫び申し上げますっ、百二十一期生第八班班長ライトール・ユーリス・ジュスティーツァ、入ります!」
「同じく副班長、レフテッド・エラトーム、入ります」
 けたたましく扉が開かれる。突然の闖入者にチッタは一瞬不快な表情を浮かべ、そしてすぐ悦に入ったように口もとをゆるめた。
 ライトールとレフテッドだ。寝間着にローブを羽織っただけの格好で、髪も乱れていた。ぜえぜえ息を切らしているところから見て、寮から飛び起きて走ってきたのだろう。
(ガロだ! ガロが、呼んでくれたんだ⋯⋯)
 先輩たちが来てくれた。たったそれだけで、泣きそうなぐらいにほっとしてしまう。彼らはすぐさま背を折り、床に膝まずいてつづけた。
「まっ、誠に⋯⋯申し訳ございません! 班員がこのような時間に出歩いたのは、監督者であるわたしの、我々の怠慢の結果です。彼らはまだ学舎の規則を正しく理解しておりません。ど、どうかここは、罰は、彼らではなくわたしたちに、」
「ライトォール。なぜ彼らの居場所がわかったのだね? ここにいるのを初めから知っていたかのようだった。⋯⋯密告者ネズミがいるのだ。そうだろう? きみの班の誰だね? いったい何人出歩いたのか、問いただす必要がある。今すぐ全員連れてきたまえ」
「それ、それは⋯⋯しかしっ⋯⋯」
「場所がわかった理由ならありますよ」
 答えに詰まり、うつむいたライトールの横で、表情を変えずにレフテッドが言った。
「そこの、ハーヴェインとカナンディア。そいつらが昼間、教官の手当てを断ったことを気に病んでたようで、お詫びがしたいって消灯間際にせがまれたんです。礼儀は大切でしょう? だからすぐ帰ってくる約束で行かせました。なのにあんまり帰りが遅いんで、なにか無礼を働いたかと思ったんですよ。それがこんなおおごとになってたとは。浅はかでした、本当にすみませんでした」
「っ⋯⋯、いいや。そこの茶髪は知らないな。詫びにきたと言うならこいつはなんだ」
「そいつはトロッタント。僻地の生まれですが、その近辺じゃ有名な薬師の息子です。うちの医務室って薬がすげえ充実してるでしょ。それで教官に一度お目にかかりたいって聞かなくて。まあ、ついていってお顔を拝見するだけならいいだろうって、許可しました。要らない誤解を生んだようで誠にすみませんでした」
 恐る恐る、チッタの顔を盗み見た。つぶれた鼻と丸パンのようにふくれたほおをどす黒く染めて、らんらんと光る憎悪の目でレフテッドのこうべをにらみすえている。
 怖い。レフテッドもレフテッドだ。こんな嘘八百、どうしてこんなにすらすら言えるんだろう。万が一ばれたら。もしくは、ガロがどこかで見られていたら。
 チッタはしばらくなにかを探すように視線をめぐらせていたが、やがていまいましげに壁へ手を這わせ、ひとつ鞭を取り上げた。
 そのまま床へと叩きつける。ぱあん、という甲高い音とともに、細かな砂埃が舞い上がった。ライトールの肩が音もなく跳ねる。
「なる、ほど、だが⋯⋯だが、トロッタントと言ったな。そいつはわたしに『いかれている』と言った。教官への暴言はっ⋯⋯許されない、処罰の対象だ。監督不行き届きも含め、おまえたち二人にまとめて罰を与える。いいな?」
「はい、教官への暴言と三人の監督不行き届きで鞭打ちですね。何発ですか、三発? 五発?」
「その程度ですむわけがない! 最低十発は打つぞっ」
「じゃ十発ですね。さっきブティスト教官にもとっとと部屋に戻れってお叱りを受けたんで。ま、チッタ教官なら、十発でおれたちに十分な罰を与えてくださいますよね」
「なっ⋯⋯く、わかった、十発で⋯⋯十発で終えてやる」
「かしこまりました。おれとこいつで五発ずつ、計十発でよろしくお願いします」
 ふ、とトロットが噴き出した。あまりにもレフテッドが遠慮なしに言うからだろう。
 確かにこっけいに見えるのかもしれない。チッタの性格を知らなければ。
 もちろん、ぼくだってすべて知っているわけじゃない。けれどこの男が『やさしい五発で終えてくれるはずがない』ことぐらいはわかっていた。
 その証拠に、ライトールはなおもうつむき、床に投げ出した手を真っ白になるほど強く握りしめている。
「よろしい。よろしい、よろしい、五発だ。⋯⋯立ちなさい。そして、服を脱げ」
 チッタはもう声を荒げなかった。許しを得て、ふたりはようやく顔を上げた。
 レフテッドはいつもと変わらない。が、ライトールの顔はまるで蝋のように白く、完全にこわばっていた。
 縛りあげられたぼくたちの前で、ふたりはローブを外し、寝るためだけのシンプルなシャツと薄い下着を脱いでいく。彼らが裸になったあと、チッタは「気をつけ」と号令をかけて姿勢を正させた。
 そのまま両手を上げさせ、頭上に垂れたフックから伸びる鎖に吊るす。フックがキリキリと音を立てて上がると当然手も吊り上げられていった。足の爪先がつくかつかないかというところで、ふたりの顔が苦痛に歪む。
 手首の鎖が嫌なきしみを上げていた。
「⋯⋯っく、う⋯⋯」
 ようやくフックの上昇が止まる。無防備になった獲物を前にして、チッタは鞭のしなりを確かめるように指でさすった。
「ライトール。彼らはなぜ規則を破ったのだろうね。きみの意見を聞かせてくれ」
 ことさらにゆっくりとたずねてくる。ライトールは脂汗を浮かべ、顔をそらしながら答えた。
「規、則を⋯⋯、規則を守ることの大切さを、知らなかったからです」
「ふむ。では、大切であることを知るためには、どうすればいいと思う?」
「⋯⋯っ、お、教えれば、わかるはず⋯⋯っ」
「そうかね? わたしはそうは思わない。すばらしい教義にも耳を貸さない愚か者はたしかに存在する。そういった哀れな連中を救うには、いったいどうすればいいのだろうね」
 言いながら、チッタが鞭を持ち上げる。そしてその先端をさらされた脇腹にじっとりと押し当てた。
 ライトールが「ぁ、」と細い声を上げて硬直する。血の気が失せたほほをランプの灯りが白々と照らした。肉の薄い脇へほんのわずかに鞭を食いこませて、チッタはくぐもった笑いを漏らす。
「どうしたのかね。答えたまえ」
「⋯⋯っ、⋯⋯⋯⋯」
「ライトォール?」
 動かなくなったライトールを面白がるように、チッタは猫なで声で名前を呼んだ。ライトールは目を見開いたまま、浅く早い呼吸を繰り返している。
 腹を空かせた蛇のように鞭がうごめいた。黒光りするそれが骨の浮いた脇腹をねっとりと舐め回す。チッタはぎらぎらと光る目でライトールの表情をつぶさに眺め、耳もとへと口を寄せた。
「きれいな肌だな?」
「っ!!」
「まるで忘れてしまったようだ。夜ごと打ちすえてやったのに、皮ふがめくれて服も着られないほどだったのに⋯⋯おや、だが、心は覚えているらしい」
 かちかちかちっ、と音が鳴りはじめた。
 それはライトールの頭上から聞こえている。彼の両手の鎖がぶつかり合っているのだ。小刻みに――震えている。
 ライトールの呼吸は、いまや離れていてもそれとわかるほど引きつったものになっていた。
「きみもいまや上級生だ。一発二発で音を上げることはないだろう。たっぷり五発、心ゆくまで味わっていきなさい。返事は?」
 ライトールはなにも言わない。チッタに視線すら合わせない。
 だが、そのあごを鞭の柄で押し上げられ、強制的にチッタのほうを向かされると、瞳にようやく怯えがにじんだ。
 返事は、と再度ささやかれる。ライトールは口を開きかけたが、床に座り込むぼくたちを視界にとらえると、とたんにくちびるを噛んだ。
 チッタの語調があざけるようなそれに変わる。
「きみは本当に鞭が好きだな。わたしを怒らせてもっと打たれたいというのなら、こちらも期待に応えなくては」
「ち、ちがっ! いえ、も、申し訳っ⋯⋯ィぎぁぁあ゛ッ!」
 鞭の先端がしなる。パァン、という軽い音を立ててライトールの背の上を跳ねた。拍子抜けしそうなほどあっけなく、前触れもなしに振るわれた鞭は、獲物の肌へと見る見るうちに赤いすじを作っていく。
 鎖がピンと張りつめる。ライトールは雷に打たれたように全身をしならせ、唯一自由な足で何度も空をかいた。額に大粒の汗が浮かび、開きっ放しの口から唾液が糸を引いて落ちていく。
「っあ、が⋯⋯ッぎ⋯⋯あ゛っ⋯⋯」
「今のはサービスだ。罰ではないから、それほど痛くもなかったろう。どうする、まだ欲しいかね」
 チッタがひたりと鞭を背に押し当てる。ライトールは必死に首を横へ振った。
「い、ぃ、いえ、要りませんっ! 打たないで、くださっ」
「いけないな。躾は素直な心で受け入れるのが肝心だよ」
 鞭が振り上げられる。ライトールがとっさに体を前へと反らした。
 しかし両手を縛られていたのでは、どこへ行けるわけもない。
「あぎゃぁあアア゛っ!!」
 濁った甲高い悲鳴に思わず目を閉じた。金属がこすれ合う、かしゃん、かしゃん、という音が連続して響く。
 くぐもった笑い声が聞こえる。チッタの声だ。鞭の衝撃にもだえているライトールを、愉しげに眺めているのだろうか。ぞっとして鳥肌がたった。
「今のもサービスだ。少しも痛くないだろう? 満足かね。それとも、もっと欲しいかね? 答えたまえ」
「ヒッ⋯⋯ひ、っ⋯⋯ひぃっ⋯⋯」
「おやおや、教官の質問を無視するとは。きみは『罰』がお望みだったか」
 がちがちっとなにかがぶつかり合う。よく知っている音だ。食いしばれなかった歯が、体の震えにつられて鳴る音。
「『罰』は痛いぞ、ライトール。よく知っているだろう?」
「⋯⋯ゆ、ゅるしてっ⋯⋯るして、くださっ⋯⋯」
「許されるまで打ってほしい、と。これは殊勝な心掛けだ。ほかならぬきみの願いだ、存分に聞き届けようじゃないか」
 鞭が風を切って振り下ろされる。硬い岩が弾けるような音がした。床に叩きつけられたのだとすぐにわかったが、ライトールは声にならない声を漏らし、ついにしゃくり上げはじめた。
 心底、面白がっているのだろう。痛みに怯え、縮こまり、震えながら許しを請う人間を、おもちゃみたいに弄んでいる。
(なんて⋯⋯酷い。トロットみたいになにか言えたら、でも、なんて言えば? やめてと言ってやめてくれるような相手じゃない⋯⋯)
「あの、そこらへんにしといてもらえません?」
 世間話でもするようなトーンで口を開いたのはレフテッドだった。
 そろそろと目を開けると、彼は呆れたような顔をチッタに向けていた。
「おれらも聖別明けでボロボロなんで、ちゃんと休めって言われてるんですよね。あんまりキツくされると明日に響きます。シャリー教官に文句言われたら、今夜のことを話しますけど、かまいませんか」
 気だるげな彼に怯えの色はない。チッタはギリッと音が鳴るほど歯をきしませ、レフテッドへ向かって踏み出した。
 大きく振り上げられた鞭が宙を薙ぐ。たった一発で皮ふが切り裂かれ、裂け目からじくじくと血がにじみだした。
 しかしレフテッドは顔をしかめるだけだ。続けて二発、三発と打ち下ろされても、小さなうめき声を上げるだけで苦しむようすがない。
 チッタは彼の前髪をわしづかみにし、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「罰も受け入れられない出来損ないが、わたしの邪魔をするな! おしのように黙っていろ!」
「⋯⋯すいませんね、ご期待に添えず」
 目を細めてさらりと返すレフテッドの胸元へと再度鞭が振るわれる。斜め十字に刻まれた傷跡はほほへまで達し、血の玉があっという間にぶくぶくと膨れて伝った。
(あんなの、痛い⋯⋯痛いはず、なのに)
 傷は明らかにライトールよりも深い。しかし、五発打ちすえられたレフテッドの横顔は平静そのものだった。力任せにやったらしいチッタの鼻息だけが部屋にこだましている。
 荒い呼吸はほどなくして落ちつき、チッタは舌打ちをしてきびすを返した。その先には吊られたライトールがいる。彼の顔色はなおも青いが、虚ろだった目には光が宿り、レフテッドの肌を伝い落ちる真っ赤なしずくを気づかわしげに眺めていた。
 獲物がよそを向いているのに腹を立ててか、鞭が床へと叩きつけられる。ライトールはぎくりと身を固め、視線をのろのろとチッタへ移した。
「相棒殿は早く休みたいそうだ。きみはどうするかね」
「⋯⋯規則を破ったことは問題ですが、一年生たちは休息をとる必要があります。ご教授いただいている最中に申し訳ありませんが、す、すぐにでも、今夜の罰をください、チッタ教官っ⋯⋯」
 言葉の気丈さとは裏腹に、声はか細く、わずかな気力を無理にでも振りしぼったように儚かった。「よろしい」とチッタが笑い、鞭がゆらりと鎌首をもたげる。
 ぴた、と背に押し当てられると、ライトールはひくっひくっと静かに跳ねた。意識してやっているわけじゃないだろう。逃れられない激痛を予感するとき、からだが制御できなくなる感覚を、ぼくはよく知っている。
 このからだが覚えている。
 見ていられない。見たくない。思い出してしまうから。
 チッタがわざとらしく鞭を掲げた。神罰を振りかざす主のように。しかしその顔に刻まれた笑みは、加虐の悦びによどんでいる。寒気がするほど――おぞましい。
 バヂィッ、という鼓膜まで貫きそうな殴打がライトールの背に刻まれる。彼は獣のように吠え立てて、自由の利かないからだでのたうち回った。
 見開かれた瞳から涙がとめどなく落ちる。神経へと直になだれ込む強烈な痛みを処理しきれず、全身がひとりでに反応してしまう。
(ああ⋯⋯痛い。痛い、いたい、――いたいッ!!)
 声が響いてくる。頭の奥に。いや、これは、すぐ後ろから?
『さあ、立て。何度言わせるんだ、この出来損ないのクズが』
「う、ぁ⋯⋯っゃ、やめ」
『立てと言ってるのが聞こえないのか!』
 怒声、そして、背中が真っ二つに裂けた。そう感じるほどの激痛が襲ってくる。叫び出したい、叫べない。声が出ない。悲鳴を上げたら、もっと痛い。ぼくは知っていた。知っている。今まさに?
『立て、行け、進め、これ以上私を苛つかせるな!』
「やめ、て⋯⋯っ! い、行きたくない、ぃやだ⋯⋯」
『お前にはウンザリだ! 何時間だ? あと何時間私はお前に時間をくれてやらなきゃならないんだ? 外に出ろ、立って歩け、たかがそれだけのことで! くそっ、くそっ、クソッ!! ああ、くそったれが!!』
 背中が焼かれている。焦げた臭いがする。何度も、何度も、打ちすえられている。だめだ、叫んでいる、気がする。頭が、わ、割れそう、だ。
 それでも、行きたくない。
 外は恐ろしい。けれどもここだって同じだ。ぼくはどこにも行けない。どこにも居場所がない。
 涙がぽたぽたと落ちて、ひび割れたタイルに染み入っていく。
(ぼくは⋯⋯どうしたらいい⋯⋯の⋯⋯)
「ひぎゃぁああ゛ア゛ア゛ッ!! あ゛ーっ!! あがぁああ゛っ!!!」
 絶叫、で、はっとした。聞きなれない声は目の前の人物から発せられていて――ライトールだった。
 そうだ。今は、ここは、ぼくは。夢から覚めるように現実が頭を満たしていく。
 意識が飛んでいたのはほんのわずかの時間だったはずだ。なのにびっしょりと汗をかいていた。顔を上げると、額にたまった脂汗が眉間をすうっとこぼれていく。
 吊り下げられたライトールの背中、脇腹、腿へと、真っ赤な傷跡が走っていた。傷口はえぐれ、皮ふの奥からにじみ出た血がテラテラと光っている。
「痛いか、ライトール? ん? あとたった二発だ。少ないくらいだろう」
「はひっ、ひいっ、ヒッ、ひ、ぃっ――」
「四発目」
「がぁあア゛ッ!! っぎ、っいぎぃぃいっ⋯⋯!! あ゛ぁぁっ⋯⋯!!」
 ライトールは頭を振り乱し、しゃがれた声で泣き叫んだ。脚がかくかくと力なく震えている。きれいな顔は涙と鼻水で汚れ、整った眉も八の字に下がっていた。
 嗚咽する彼の正面へと回ったチッタの口元は弧を描いている。彼は悲鳴の反響を堪能するように、ライトールがぐったりと動かなくなり、部屋に静けさが戻るまで待った。
 今にも途絶えそうなほど弱々しい呼吸が、かろうじて繰り返されている。だが、鞭の先端が股間をなでると、ライトールは弾かれたように顔を上げた。
「っあ、や、やめっ、ぃ、や、チッタ教官ッ」
 両腿を閉ざして必死に首を振る彼に、チッタはやれやれと肩をすくめ、床から突き出た拘束具を手に取る。ライトールは引きつった声を上げ、足をばたつかせた。
「やめてくださいっ! それだけは、おねが、いやですっいやだっ、チッタ教官、どうか、や、いやだあぁっ!!」
 嘆願も抵抗もまるきり無視して、チッタはライトールの両足首に金具をはめた。すぐに金具から伸びた鎖が巻き取られていく。ぴったりと閉じていた腿は無理矢理こじ開けられ、膝が伸びきった状態で固定された。
 ライトールが何度も引き抜こうともがくせいか、金具に食い込んだ足首が赤く変色しはじめている。それでもぴんと張った鎖はわずかに揺れるだけでゆるむ気配がなかった。
 チッタが手にした一本鞭をひょいと壁にかけ、また別の鞭を手に取る。
 それは先端が革ではなく麻縄になっており、根元からいくつも枝分かれしていた。ライトールはそれを見たとたんに絶望的な表情になり、すがるような目でチッタを見る。
「ぉ、お許しくださいっ、教官、も⋯⋯ひぃっ!!」
 哀願する彼の下腹へと鞭が押し当てられた。振るったときに痛みが増すよう、縄にはところどころコブが作られている。萎えた股間をぐりぐりと潰されてライトールが頭を振った。
 許してください、どうか、と泣く彼に、チッタは醜悪な笑みで応える。
「たったの一発だ。がまんできるね」
「で、できな⋯⋯できませんっ! 申し訳、ありませっ⋯⋯、許してっ⋯⋯」
「下級生の前でそう泣くものじゃない。ほら、笑いなさい」
 ぼくたちへと顔を向けさせられたライトールは、大粒の涙をこぼしながらまぶたを伏せた。言われた通りに口の端を吊り上げようとしているのか、くちびるがいびつな弧を描く。
 だが長くはもたなかった。チッタがすうっと息を詰めると、ぎこちない笑みはあっという間に消え去る。
 そこからは、まるで時間が小刻みに切りはなされたように、一秒一秒がゆっくりと過ぎた。チッタが片手を振り上げる。ライトールの目は瞳孔まで開かれている。のろのろと鞭が落ちていく。分かれた先端が一息に打ち下ろされて、縄目がやわらかな肌をえぐり取り、そして――。
「――ッ、っっあ゛ーーっ!!!」
 数瞬遅れて、殴りつけられるような絶叫が全身を包んだ。
 粟立った肌がビリビリと震える。床が揺れているのが膝から伝わってくる。しゃがれた咆哮は部屋中に響き渡って、余韻がいつまでもいつまでも残った。
 糸が切れたようにライトールが動かなくなる。
 しょろ、と水音が立つ。独特の臭いが鼻をついた。黄みがかった液体が水たまりになって広がっていく。
 フックが下がりはじめた。汚水に尻を浸してもライトールは身じろぎひとつしなかった。チッタがそのあごに手を当てて上を向かせる。
 白目を剥いていた。だらりと舌を垂らし、濁った鼻水と涙で真っ赤になった顔は、もうライトールのものとは思えなかった。それをしげしげと眺めて、
「⋯⋯くっ、くくっ⋯⋯」
そう、チッタは笑った。
 ぼくは――なにも考えられなくて――いや、なにも考えたくなかっただけだ。ただ目の前の光景に打ちのめされていて、息すらできなかった。
 下ろされたレフテッドが「外してもらえます?」と声を上げ、忌々しそうにチッタが枷をゆるめるのを、夢の中の出来事のように呆然と見ていた。
「おい。ライ、起きろ。ライトール」
 レフテッドがライトールの頬を叩く。何発目かではっとしたように跳ねてレフテッドと視線を合わせた。「レ⋯⋯、」とかすれた声でつぶやいた彼は、すぐに下の惨状を理解してさあっと青ざめる。レフテッドはライトールにローブを被せて、自身のローブでためらうことなく床を拭った。
「⋯⋯ぁっ、や、きたな⋯⋯っ」
「いいから」
 ローブが液体を吸い上げて黄色く変色していく。ライトールは止めさせようと手を伸ばしたが、はたから見ても力が入っていないのがよくわかった。
 床がきれいになると、レフテッドは下穿きだけ身につけてからこちらへやってきて、ぼくたちの拘束を解いてくれた。
「行くぞ」
 言葉少なにそう言われてコクコクうなずく。トロットも無言で立ち上がり、扉へと向かおうとした。
 しかし、あろうことかカナンは、つかつかと歩いてチッタに向かい合う。
「返して。本」
「⋯⋯本?」
「医務室に置いた本」
 トロットがぽかんと口を開けた。ぼくは自身の体温がすうっと下がっていくような心地がした。
 チッタはいぶかしそうにしていたが、やがて合点がいったように笑う。
「ああ⋯⋯この建国詩かね」
 引出しから彼が取り出したのはまさしくあの本だった。カナンが駆け寄ろうとする、のをレフテッドが無理矢理引っつかむ。膠着するぼくらを放ってチッタはぞんざいにページをめくった。
「教会で読まれるおとぎ話だな。『神と人、分かたれども変わらぬ君よ。約束の地はこの世の果てだ。私はそこで待っている』⋯⋯」
「返せ」
「返す? なぜ? これはわたしの本だよ。ずいぶん前に拾ったんだ。きみのものではない」
「そんなはずない」
「カナンディア」
 レフテッドが低く名を呼ぶ。いつになく真剣で冷ややかな声音だった。
 ぼくはぎくりとしたが、カナンはそんなことを一切気に留めず、本だけを見すえている。今にも飛び出していきそうだ。
 待ち構えるようにチッタが腕を組んだ。
(このままじゃ⋯⋯今度はカナンが? ⋯⋯っそんなの、嫌だ。絶対嫌だ!)
 湧き起こった思いに突き動かされる。固まっていた足を無理矢理に駆って、ぼくはカナンの手を取った。鈍くなった感覚でもその痛みがわかるくらいに強く強く握りしめる。
「だめだ、カナン。本は諦めよう」
「⋯⋯⋯⋯」
「カナン、⋯⋯お願い」
「⋯⋯わ、かった」
 カナンはひどくゆっくりとうなずいた。それを聞くなり、レフテッドはぼくたちを引き寄せて「行け」と扉へ押し出す。ぼくたちが外へ出ると彼が早口に詫びるのが聞こえた。
 扉が閉まる。耳の奥に留まっていたライトールの悲鳴が、ようやく薄れていく。
 レフテッドは脱力し切ったライトールを肩で支え、片手には湿ったローブ、もう片方の手には互いの服をつかんでいた。引きずるようにしてのろのろと歩き出す。
 研究棟から離れて、最初に気を取り直したのはトロットだった。
「あんたら、大丈夫? 俺も支えるよ⋯⋯もしくはソレ、持とうか」
 レフテッドの荷物を指した言葉にライトールは息を飲む。ライトールが腕から抜け出そうとするのを感じたらしいレフテッドが眉を寄せた。
「やめろ、運びにくい」
「っ、ぃ、いい、もう、歩ける⋯⋯うぐっ!」
 ライトールが顔を歪め、足をもつれさせて地面に倒れ込んだ。閉じられていないローブの前から生々しい傷口がのぞく。それを片手で覆い隠して、ライトールは浅く息をした。顔色が悪く、今にも気を失ってしまいそうだった。
「しょうがないな」
 そう言ったレフテッドが彼を抱き寄せる。
 顔を近づけて、そのままあっさりと――口づけた。
「⋯⋯っえぇ!?」
 トロットがひっくり返った声で叫ぶ。突然の口づけにライトールも体を強張らせ、抵抗するように身もだえたが、次第にすがりつくような動きに変わった。
 舌と舌が絡められる。ぴちゃ、という軽い音がして、彼らの左手の片蹄鉄がわずかに光を帯びた。ふたりは互いに眉間へしわを寄せている。苦しそうにすら見えたが、深く口づけを交わしたまま離れなかった。
「ちょっ、ちょ、ちょっとあんたら、なに!? そ⋯⋯そういう関係っ⋯⋯だとしても、今はやめろよっ、なあっ!」
 トロットは顔を逸らし、忙しなく目線をうろうろさせながら言いつのった。彼の声が聞こえたのか、ライトールが再び押しのけようとする。レフテッドはそれに逆らわずに口を離した。
 見つめ合ったふたりが、どちらからともなく息をつく。
「はー⋯⋯いってえ」
 つぶやいたのはレフテッドだった。平静だったはずの横顔へと汗が伝っている。頬の傷から滴る血もまとめて乱暴に拭いながら、彼はライトールを見下ろした。
 ライトールは真っ青だった顔色にいくらか赤みが戻っている。蚊の鳴くような声で「すまない、レフ」と詫びて、立ち上がろうと身を起こしたが、低くうめいてくちびるを噛みしめた。
 遠巻きに見ていたトロットが糾弾するように腕を組む。
「あんたらなあ⋯⋯けが人だろ! イチャつくのはベッドでにしろって!」
「イチャついてんじゃない。こいつは過敏型で、痛覚が発達しすぎてるから、ああいう目に遭ったら均さないとまともに動けないんだよ」
「はっ? カビンガタ⋯⋯? なんかの病名か?」
「『接続』するのに粘膜の接触が要るんだ。お前らもそのうちわかるさ。⋯⋯早く行け。今日のことは忘れろ」
 犬でも追い払うように手を振られて、ぼくたちは顔を見合わせた。
「や、でもあんたら、大丈夫なのか? その傷、早く洗って化膿止めを塗らないと、長く痛むよ」
「いいよ、アテがある。でもお前らがいると面倒くさい」
「⋯⋯あっそ! なら、もう知らねえよ。ほんとツイてねえ。ハーヴ、カナン、行くぞ!」
 呆れた、と言わんばかりにトロットが闇の中を大股で歩いていく。あっという間に見失ってしまいそうで、ぼくはレフテッドたちとトロットの背を交互に見た。
 ぐったりとして細く息を吐いているライトール。何度も助けてもらったのに、今のぼくにはなにもできない。
 取り返しがつかないことをしたんだ。
「⋯⋯心配するな。俺だってこいつが壊れると困る」
 レフテッドがふっと笑みを浮かべた。なにも言えないまま立ちつくしていると、遠く後ろから「行くぞ、ふたりとも!」と呼ぶのが聞こえた。
 ぼくはごくりと唾をのみ、かろうじて震える声で言う。
「⋯⋯ご、ご、ごっ⋯⋯ごめん、なさい。来てくれてっ、⋯⋯ありがとう⋯⋯っ」
 聞いたレフテッドが目を丸くする。彼がなにかを口にする前に、ぼくはカナンの手を取って暗がりへと走り出した。
 感覚がつながると共に、周囲の風景が一気に色あせる。冷え切った床や、鞭のしなる音、口いっぱいに広がった酸っぱい味が、膜で隔たれたように鈍くなって遠ざかっていく。
(ぼくは、バカだ。カナンもみんなも危ない目に遭わせて⋯⋯本当に怖かった⋯⋯っ)
 どんな傷もぼくが負ったわけじゃないのに、じわじわと涙がにじんでくる。あっという間にこらえきれなくなって頬を伝った。情けないぼくをカナンがじっと見ている。知らない生き物を観察しているような、てらいのない無垢な目だった。
「⋯⋯痛い?」
 たずねられる。答えられないで鼻をすすった。鈍く痛む膝を放って、ぼくたちは寮への道を、急かされるように駆けて行った。

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